五三短律句事始め

はじめに

坐る ただ坐る 静か

 本格的にはじめたのは還暦の頃ですから、もうかれこれ三十年近く毎日の朝のお勤めを欠かしたことはありません。  

 日常の雑事や考え事を離れ、正身端坐して深く静かに呼吸します。姿勢を正し、呼吸を調えるところまでは、何とかできていると思うのですが、心を調えて落ち着かせるのは至難の業です。毎回妄想乱心に悩まされています。長年真面目に取り組んではいるものの、別にどうってことはありません。無師独坐の野狐禅(独りよがりの禅)に過ぎないので、悟りなどというものとはまったく無縁です。

 はじめにの二番目の句「澄んだ 空に雲 白く」は、私はまだ経験したことのない悟りの境地を詠んだものです。仏教では、澄んだ青い空は悟りの境地、雲は煩悩の喩えとして用いられます。私たちは、日頃煩悩の黒い雲に覆われて迷いながら生きています。しかし、私たちの本来の心は澄んだ青い空である、と仏教は教えています。その真理を会得するのが悟りです。その境地が涅槃寂静(煩悩がなくなって心の静まった安らぎの境地)です。仏道修行はその究極の境地をめざしているのでしょう。釈迦や道元はいざ知らず、悟っても煩悩が完全に消え去ることはありません。しかし、そこに浮かぶ雲は黒ではなく白いはずです。私たち在家の凡夫がいくら真剣に坐ったところで、せいぜい灰色にでもなれば御の字です。それでも坐りつづけていると、一瞬それに近い状態になることはあります。身・息・心が一つになって清らかに澄み、とても安らかな気持ちになるのです。

 私たちは、アタマ(心)では、自他・心身・正邪・善悪・愛憎・美醜等、二元分別の世界を生きていると錯覚しています。言語のもつ分別機能、概念化機能、実体化機能のせいです。 しかし、本来、カラダ(命)は、二つに分かれる以前のあるがままにあるマッサラな全一的世界を生きているのです。このことに人は気づいていません。行(ぎょう)によってそのことに目覚め、そこに住(じゅう)している人のことを仏というのです。