五三短律句事始め

はじめに

四季に 花の咲く ふしぎ

 うめ、もも、さくら。庭の木に花が芽吹く順序です。その季節になれば、なぜか毎年同じ順序で花が咲きます。私は、このあたりまえのことが、不思議でなりません。

 四季折々にそれぞれの花が咲くのも不思議ですが、一個の受精卵が細胞分裂を重ねて十月十日で人間の赤ちゃんに劇的変身を遂げるのも不思議です。胎児の個体発生は、太古(約三十億年前)の海に誕生した生命の悠久の系統発生を再演したものだといわれます。 羊水は古代の海水なのです。自然の営みはすべて人知をはるかに超えています。 だから人はそれを神と呼ぶのでしょう。

 かつて、私が現役で家族療法をやっていた頃の話です。 一人の母親がダウン症候群の赤ちゃんを抱いて来談に訪れられたことがありました。母親は問い詰められます。

母「なんで私の子がダウンなんですか」
私「それはですねぇ、二十一トリソミーといって、二十一番目の染色体が通常二本のところ一本多く三本あるからです」
母「そんなこと私知ってます。本で読みました。なんで私の子がダウンなんですか」
私「それは高齢出産で・・・」
母「そんなことぐらい私知ってます。高齢出産はみんなダウンになるんですか」
私「いやそれは確率の問題で・・・」
母「じゃあ、なんで私の子がダウンなんですか」
私「それは神様が・・・」

 どんな事柄でも同じ質問を三回続けられると、答えに窮し「それは神様が・・・」と言わざるを得なくなります。

 実は、先の会話は仮想問答で、そのとき私は「なんででしょうね」と答えてあとは黙っていました。母親は事実を受け入れる以外どうしようもないことを百も承知なのです。 ただ今はそれを受け入れることができなくて悩まれているのです。

 私の長男もテンカン発作をもつ重度の知的障害者です。 残念ながら、新生児の数パーセントはどうしようもなく障害児として生まれます。 人はこれを自然の失敗だと考えがちですが、自然に成功も失敗もありません。自然はただ自然まま働くだけです。あたりまえのことなのです。このあたりまえのことが不思議なのです。 金子みすずの詩にもあるように、あたりまえだといって、誰もその不思議を気にしません。でも、それはそれでいいのではないでしょうか。自然の営みをいちいち子どものように不思議がっていては日常生活が成り立ちません。不思議をあたりまえのこととして受け入れるのが大人の知恵というものでしょう。

 

芽咲く うめももに さくら