五三短律句事始め

はじめに

風に 竹林(ちくりん)が さわぐ

 あの禅の大家として著名な鈴木大拙が、仏教を西欧社会に広めるために渡米して最初に英訳したのが『大乗起信論』でした。ことほどさように、『大乗起信論』は大乗仏教の基本テキストなのです。

 その『大乗起信論』に有名な「水と風」の喩えがあります。心の二種のあり方、つまり真実のあり方と現実のあり方をこの喩えで巧みに説明しているのです。

 大海の水は本来波立つことなく静かでおだやかなもの(真如)です。これに(無明の)風が吹けば波立ち(生滅)ます。むろん、風が止めば波はもとの静けさに戻ります。風と波は不可分の関係なのです。しかし、たとえ波が絶えず生滅変化を繰り返しても、水そのものには何の変化もありません。波は水の相ですから、水を離れてあるわけではありません。しかし、水に波立つ性質が具わっていなければ、風が吹いても波立つことはありません。石がそうであるように。水は心の真実のあり方、波は現実のあり方の喩えです。

 竹の林が風にさわぐのも、「水と風」の喩えとまったく同じことをいっています。風が吹かなければ、竹は揺れ動くことなく、まっすぐに立っています。でも、少々の風が吹いても、ざわつくことなく、安らかに落ち着いている。これが禅が目指す心のあり方なのでしょう。

 これとよく似た言葉に、

 

風に そよぐ葦

 

というのがあります。新訳聖書のマタイ伝に出てくるイエスの言葉です。イエスは、洗礼者ヨハネにことよせて自分の存在証明を語っているのです。

 

ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である

 

 ここに「風にそよぐ葦」という言葉が見られます。さわやかな詩的イメージが浮かびますが、意味は権力者の言うがままにおもねる定見のない頼りない人の喩えです。しなやかな服を着た人が王族の権力者です。荒れ野は、ヨハネが修行し洗礼する場所です。

 「風にそよぐ葦」は英語では慣用句だそうです。人間はよく葦に喩えられます。パスカルの「人間は考える葦である」もそうです。葦は、水辺に育つ弱く細い草で、弱い存在の喩えなのです。

 しかし、どうせ喩えるなら、葦より竹の方がいいと思います。竹はしなやかで強いのです。風になびいてもすぐもとに戻ります。葦と違って、地上の竹は一本一本独立しているように見えますが、すべて地下茎で結ばれています。これと同じで、人間の意識は自我によって一個の独立した存在であるかのように思い違いしていますが、無意識は地下茎(無我)ですべての人やものごととつながっているのです。

 だから、共感できるのです。