「いったい自分は何者か」。これは人間存在の根源的な問いです。「本当の自分探し」は青年だけの特権ではありません。中年期、初老期、高齢期、人生いつの時期においても折に触れて頭に湧き起こってきます。
この問いと「何のために生きるのか」、「どう生きたらいいのか」とは三つ子のきょうだいです。でもこれは問うても詮無い永遠に答えのない問いです。にもかかわらず、生きてる限り問わずにはおれないのが人間です。
「いったい自分は何者か」。一応、「何者でもない、ただの人。ただただならぬ、ただの人」と答えておきましょう。ただの平凡な人です。「何者か」とそう粋(いき)がることもないでしょう。ただし、この私以外誰もこの私を私することはできません。この世で唯一無二の絶対的存在です。「天上天下唯我独尊」なのです。ただならぬとはそういう意味です。
「何のために生きるのか」。何かのために手段として生きるのではありません。生きるために生きるのです。生まれたから死ぬまでただ生きるのです。そのただならなさに気づくために生きるのです。
そこには何の意味も価値もありません。本来、無意味な人生に過剰に意味を求めようとするのが人間のあさはかな性(さが)です。ないものねだりで、そんな幻想を追い求めるとただ虚しくなるばかりです。虚無感に悩まされるのがオチです。
「どう生きたらいいのか」。生きるとは何かをすることです。今この一瞬にできることはただ一つだけです。それをただやり続けるだけです。次に何をしなければならないかは、今自分がやっていることが教えてくれます。ゲーテも「処世のおきて」のなかで同様のことを語っています。
毎日が何を欲するかを、たずねよ
毎日が何を欲するか、毎日が言ってくれる
人生は時々刻々と移り変わる日々の生活のなかで苛酷にも「今ここで、お前はどうする」と問いかけてきます。私たちはたじろぎながらもその問いに自分なりに精いっぱい実践的に解答しつづけなければなりません。それ以外に私たちの生きようはないのです。
「生きることがよろこびだ」というのは幻想にすぎません。生きることは、ただ「今、自分にやれること、やらなければならないこと」をやるだけのことです。人生において、ちっぽけな何でもないことを疎かにしてはなりません。人生はその一つひとつをやり遂げていく小さな実績の積み重ねでしかないのですから。
「神は細部に宿り給う」のです。