「それに」というのは、今自分がやっていることです。やっていることは何でも構いません。ただ今この一瞬にやっていることに成り切ってそれと一体になることです。禅では「三昧(ざんまい)」といいます。そうなればそれはもう「さとり」といっていいのではないでしょうか。野球の打者がヒットを打ったとき、一瞬球が止まったといいます。打者の仕事はただ「来た球を打ち返す」だけの単純動作です。その単純動作に成り切ったとき、球は止まったと感じるのでしょう。そこにヒットを打ってやろうとかホームランをかっ飛ばしてやろうといった邪(よこしま)な自分のはからいが介入すると、打てたものではありません。無私無心です。鍛え上げた身体が自然に反応するのです。球はひとりで飛んでいきます。
こういう言い方をすると、すぐにでは、ゲーム依存症もさとりかという揶揄(やゆ)が入りそうです。むろん違います。さとりの極地は日常生活そのものです。やらなければならないことは無心にやりますが、止めなければならないときは即座に止めます。やることも止めることも自由自在なのです。それにとらわれることがないのです。でも、依存症は違います。いくら止めようと思っても自分では止めることができないのです。
ミヒャエル・エンデのあの名作『モモ』に登場する道路掃除夫ベッポの仕事ぶりも亀の歩みを思わせます。まるで一足半の経行です。『モモ』の作品のなかで、ベッポの人生観を述べた一節がもっとも強い印象を読者に与えるくだりです。
ベッポは長い道路を掃除するときの仕事のコツをモモに説いて聞かせます。いちどに道路全部のことを考えてはいけない。今やっていること、つまり「一歩、ひと呼吸(いき)、ひとはき」のことだけに全神経を集中すること、そうすれば楽しくなってくる。これがだいじなんだ、と。このベッポのこつこつと道路を掃除する姿に禅の修行者の影をみることができます。
重松宗育は『モモも禅を語る』の中で、これを禅でいう「三昧(ざんまい)」の境地だと把え、「一歩(いっぽ)=一呼吸(ひといき)=一掃(ひとは)き」を「ベッポ流の『数息観(すそくかん)』とみなしています。数息観というのは、深く静かに呼吸しながら坐禅し、その呼吸に注意を集中して、ひとーつ、ふたーつ、みーつ、と数え、とーおになったら、またもとのひとーつに戻ります。これを何回も何回もくりかえしながら、次第に深い瞑想に入っていくのです。呼吸に成り切り、呼吸と一つになる手法のことを数息観というのです。
ベッポは、「一歩=一呼吸=一掃き」という単純な動作に全神経を集中することによって、仕事に成り切り、仕事と一つになる極意を身につけているのです。どんなに長い道路であっても、意図せずにいつの間にか掃き終わっています。エンデはベッポの口を借りて、大きな仕事をするときの心得を説き、見事に三昧の智慧を描いているのです。
「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」。この芭蕉の句で決定的に重要なのは、最初の「よく見れば」です。さとりといえば、すぐに無とか空が連想されますが、「見る」行為に成り切って主客未分の空の境地になれば、垣根に咲くなずなの花それ自体の本来の姿があるがままに顕(あらわ)れる、それを「さとり」というのです。