この句をみて「こりゃ何じゃ?」とびっくりされたことでしょう。私たちはふつう、「わがまま」を自分勝手、自分本位、あるいは自己中心と否定的な意味で理解しています。ですから、「わがまま」に生きることは許されないことです。
「わがまま」を広辞苑でひいてみてください。最初に出てくるのは、「自分の思うまますること」とあります。「自分の思いどおりにしたい」というのは、人間のもっとも根源的な欲求です。
しかし、人間は一人で生きているのではないのですから、なかなか自分の思いどおりにはなりません。「ままならぬ 憂き世の定めと 諦めて」それでもなお生きつづけなければなりません。それが、はじめにの第三句「生きる ままならぬ ままに」です。
人間なんて「わがまま」なものです。自分のしたいことはしますが、したくないことは絶対にしません。したくはなかったけれども、仕方なしにしたという人がたまにいますが、したからには、それはしたかったことなのです。このことをはっきりと自覚的に気づくべきです。
私は知的障害者の支援施設を経営しています。「あなたは何のために福祉をなさっているのですか」とよく尋ねられます。「世のため、人のため」という答えを期待してのことらしい。私の長男は重度の知的障害者です。ですから、私はきまって「自分のため、わが子のためです」と平然と答えることにしています。相手は期待を裏切られて一瞬蔑視したような顔つきをなさいます。
そこで、私は「あなたはいったい何のために働いているのですか」と問い返します。相手はウッと答えに窮します。よくよく考えてみると、自分も同じように「自分のため、家族のため」にしか働いていないことに気づかされるからです。どんなに言いつくろっても「世のため、人のため」に働いているのではありません。なにより証拠に、待遇が少しでも悪化すると、すぐ止めて別の職場に移ってしまいます。それを、「私は自分のことは一切勘定にいれず、ただ世のため、人のために生きている」と平気で宮沢賢治みたいなことをうそぶく人がいます。自己欺瞞もはなはだしい。そういう言葉を聞くと私は背筋に悪寒が走ります。偽の字は人偏(にんべん)に為と書きます。偽善とは、人の為になす善のことです。
福祉はけっして「世のため、人のため」と自己犠牲的に建前でするものではありません。私の支援施設で実践する「マインドフル・サポート」は、これから述べる意味で、「自利利他」の布施行なのです。
世間は誤解していますが、釈迦は「一切衆生を救済するため」に出家したのではありません。ただ自分自身の耐え難い苦悩を解脱するためだったのです。その結果が二千数百年にわたって「一切衆生を救済する」ことになったのです。
自分のやりたいことを、ただ無心にやり続けることが、結果として意図せず「世のため、人のため」になっている、そういう自己のあり方が決定的に重要なのです。
常識的な「わがまま」と区別するために、句の「わが」と「まま」の間に中黒・を打っていることに注目してください。私のいう「わが・まま」とは、自他未分のあるがままの自分(仏)をあるがままに(仏のように)生きようということです。奥が深いのです。ただ、自分のやりたいことをやりたいようにやる、それがとりもなおさずそのまま人を幸せにしている。これこそが「仏の技」なのです。そういう「わが(自己)」のあり方を問題にしているのです。「人は誰でもみな仏になる可能性(仏性)をもっている、いやそのままで仏なのだ」と仏教では説いています。むろん、現実にはなかなかあり得ないことです。
〈今〉についても一言触れておかなければなりません。私たちが生きているのは、現在、ただ今、この一瞬だけです。一瞬前も一瞬後も生きてはいません。過去はどこに去ったのか、未来はどこから来るのか。すべてはただ今この一瞬の中にしかありません。過去と未来の一瞬の接点、この無の一点が今なのです。
直前の今が、今の今になり、今の今が、次の今になる。今しか存在しないのです。その今が、生きている限り、いつまでも次々に継起します。「永遠の今」と呼ばれる所以です。ですから、今をわが・ままに生きるということは、永遠の今をわが・ままに生きるということなのです。