五三短律句事始め

はじめに

人生 なりゆき まかせ

 これはよく使われる慣用句です。五三短律句とはいえません。全体の字数は同じ十一字なのですが、字余り字足らずで、五三短律句の規定をはみ出しています。ただ前句に引っ掛けて持ち出しただけです。前句と同様に、「こりゃ何じゃ?」と、主体性のかけらもない無責任な句のように思われるでしょう。でも、よくよく考えてみると、人は誰でもこのようにしか生きられないのです。

 現代は、主体性、自主性、自己決定の尊重などがかまびすしく叫ばれます。しかし、その基礎にあるのは西欧的自我観なのです。主体性とか自己決定とかいう言葉だけが、その意味もよく知らないまま、ひとり歩きしています。自分らしく生きたいといいますが、その自分はいったいどこにあるのでしょうか。ありもしない自分を持ち出して自分らしくとは何をいっているのでしょうか。縁起的自我は空なのです。このことは後で詳しく述べますので、ここで説明することはしません。自己決定の意義については、拙著『福祉心理臨床学』で論じていますので、興味のある方はそちらを参照してください。しょせん主体性とか自己決定とかいっても、それは縁起生のものに過ぎないのなのです。

 親鸞の言葉です。

 

さるべき業縁のもよほせば
いかなるふるまひもすべし

 

 ここで、業とは行為のこと、業縁とはその行為を引き起こす条件のことです。この親鸞の言葉は、そのような行為しかできないような縁が生じたら、そのようにしか行為できないではないか、という意味です。どんな行為でもやっていいということではありません。たとえ、それが殺人というような行為であったとしても、そうせざるを得ない状況におかれれば、そうせざるを得ません。戦争を考えればすぐわかることです。自分がやらなければ、自分がやられるのです。人間なんてそう強いものではありません。

 親鸞の言葉はとても厳しいのです。「なりゆきまかせ」とはそういう意味なのです。「なりゆき」を信じ、それを真摯に受け止めて「まかせる」以外にないのです。