「冬は 庭の木が 枯れる」ものです。でも、その枯れた木が、厳冬のなかでやがて来る春にそなえて、芽吹いている生命の力を感じます。
人生はよく四季にたとえられます。私は今、玄冬の季節を生きています。もう春が来ることはありません。でも今でも何かが芽吹いています。この「五三短律句 事始め」もそのひとつかもしれません。出版できるかどうかはわかりませんが、次の本の構想もすでに出来上がっていて、現在執筆中です。仮題は『ナッシング・グレートの臨床哲学 止観・坐禅のテキストに学ぶ』です。かなり分厚い本になりそうです。
幾つになっても、命ある限り、つねに芽吹くものなのですね。ちなみに、私は今年(令和五年)米寿を迎えました。
枯れつつありますが、まだ枯れ切ってはいません。
枯れた この身にも いまだ
日本昔話の「花咲か爺さん」ではないのです。枯れ木に花を咲かせるつもりはありませんし、枯れ木に花が咲くわけもありません。
冬の庭の木は、枯れているように見えて、たしかに生きているのです。たとえ春を迎えることはないにしても、枯れ木になる前に、もひと花咲かせようというのです。毎日、せっせと枯れ木に水をやっています。うちのカミさんは「もういい加減枯れたら」といつも言います。