五三短律句事始め

はじめに

思う ゆえに我 ありか

 この文は読まないでください。ややこしすぎます。

 ご存じ、デカルトの「我思う ゆえに我あり(コギト エルゴ スム)」です。デカルトは断定文ですが、この句では、疑問文になっているのがミソです。

 デカルトは、あらゆる存在を本当に存在するのかと疑って疑って疑い抜いてなお、いま自分が疑っていることそれ自体、そして疑っている自分自身の存在自体は疑い得ないものと考えたのです。これがこの命題の意味するところであり、自己の存在証明です。デカルトの方法的懐疑といわれています。彼は、この命題を自分の哲学の第一原理に据えました。

 しかし、この絶対と思われる命題にもいくつかの疑問があります。

 一つは、「思う」と「ある」の関係です。

 確かに疑っていることそれ自体は疑えないというのは真理だとしても、だからといって、そこからなぜ「ある」といえるのか、という疑問です。これはカントが提出した問題です。次のよく議論される問題に置き換えるとわかりやすいでしょう。

 

「見えるからある」(唯心論)のか、それとも
「あるから見える」(唯物論)のか

 

 私たちは、ふつう意識の外側に客観的事実が実在していると確信しています。しかし、この確信は客観的に実証することは不可能です。なぜなら、いくら最新の精密な測定器で客観的証拠を記録したとしても、結局はそのデータを見て解釈しなければ(つまり、意識を通さなければ)ならないからです。機械に記録しただけでは何の意味もありません。実在の確信の根拠は、今目の前にコップが見えているという事実は疑えないという意識の不可疑性にもとづいています。

 「見える」と「ある」を二元論的に分別した議論はあまり生産的ではありません。仏教的一元論からいうと、

 

「見えるからある」のでも、「あるから見える」のでもありません
「見えるから見える」のであり、「あるからある」のです

 
 自他未分の一元的世界では、「見えるなら見える」だけ、「あるならある」だけです。しかもこの二つはたがいに妨げ合うことも否定し合うこともありません。実は同じ一つのことを言っているのです。道元は『正法眼蔵現成公案』の巻の中で、「一方を証するときは一方はくらし」(一方をいうときは一方だけ、他方は影で姿を現わしません)と表現しています。

 もう一つは、「我あり」の我と行為の関係についてです。

 デカルトでは、冒頭に「我思う」と「思う」という行為以前に我が存在しています。もともと「コギト」は〈考える〉とか〈意識する〉という意味のラテン語の一人称単数形です。だから、

 

思う 故に我あり

 

とすべきであるという説を何かの本で読んですごく納得したことがありました。そもそも「我思う」の〈我〉と「故に我あり」の〈我〉とは同じ〈我〉なのでしょうか。「我思う」の〈我〉は現在ただ今何かを思っている実存的な〈我〉です。それに対して、「故に我あり」と言い切ってしまうと、その〈我〉は一般化された超越的な本質的実体としての〈我〉になってしまいます。〈故に〉には論理的飛躍があるのです。そこで、デカルトの基本命題を活かすとすれば、

 

思う ゆえに思う我あり

 

とした方が、「行為存在論」の立場からはいいのではないかと思うのですが、このようなややこしいことは哲学者でもない私如きの考えることではありません。

 実は、デカルトの二千年以上も前に、釈迦がこれと同じようなことを言っているのです。南直哉は「スッタニパータ」から次のような偈(げ)を紹介しています。

 

〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ

 

 〈われは考えて、有る〉は、デカルトの定理そのものを彷彿とさせます。しかし、釈迦のいう〈考え〉は、〈迷わせる不当な思惟〉のことです。それは、実体なきものをあたかも実体あるがごとく妄執することです。だから、その根本をすべて制止せよと諭しているのです。デカルトの思想とはまったく似て非なるものなのです。

 さらにもう一つ。釈迦が出てきたついでに、「我の縁起説」について考えておきましょう。

 近代西欧思想の出発点が「自我の自覚」にあったとすれば、東洋思想のエポックメーキングは「無我の発見」であったといいます。仏教の存在意義は苦の原因が〈無我〉に対する無明(無知)であると洞察したところにあります。デカルトにはじまる近代西欧的自我観は、心身二元論の立場です。私たちは、現に「私」という存在がありそれを中心に現実世界が現前しているために、自我なるものが実体として存在し、それとは独立に実体として存在している現実世界を生きていると錯覚しています。そして現実のただ今の自己の存在を確実なもの、常住なるものとして執着するのです。自我の実体視です。

 これに対して、「非有非無(空)にして、また是れ有(我)なり」(本来、有るのでもなく無いのでもないが、現象としては確かに有る)というのが仏教の縁起的自我観です。「本来、〈空なる私〉が遇縁によって現に今ここにこうして縁起している、と同時に縁しだいで別様にも縁起しうる」と言い換えても同じです。ただ今の一瞬一瞬を縁起のままに仮そめに「私」たらしめられているというのが本来的な自己存在のあり方なのです。因縁を離れた実体的な「私」という存在などなく、縁起なるものは無自性・空なのです。自性とは他から独立して、自らによって自らたらしめている性質のことをいいます。縁起の構造は、自に依(よ)って他があり、他を待って自があるところの相依相待(そうえそうたい)的関係ですから、縁起生のものは無自性であるといわれるのです。

 「我あり」といっても、そもそも西欧的自我観と仏教の縁起的自我観とは根本的に異なっているのです。