先日、ある会議が終わった後、一人の見知らぬ若い女性が近寄ってきて、「先生の笑顔ってとても素敵ですね」と声をかけてくれました。何も意識していなかったし、突然のことに一瞬戸惑い、「ありがとう。耳が遠いから、ただ黙ってニコニコしている以外にないのよ」と応えておきました。でも、この彼女の一言で、はっと気づくものがありました。
第0章の二でも述べましたように、平成二十四年三月に退職して以来、まったく自分を見失って何をやっても虚しく、自己喪失感と人生の無意味感に悩まされていました。いい年して「自分はいったい何者だ」、これから「はて、どう生きようか」と青年のように思い倦ねていた、まさにその時の彼女の言葉だったのです。
そうか、年寄りが世に出しゃばることはない。ミヒャエル・エンデの『モモ』に登場する主人公の少女モモのように、何もしないでただ黙ってそこにいるだけで、まわりの人びとの心が和み、その人たちが生き生きと楽しく生活できるような、そんな存在になればいいんだ。小春日和の穏やかな太陽のように。このことに気づかせてくれた彼女は、私にとってまさに観音様でした。それから随分生きやすくなりました。
こんな話を聞きました。祖父が孫に尋ねます。
「大きくなったら何になるんだい?」
孫は答えます。
「ぼく、野球の選手になりたい」。
「わたしは、花屋さん」。
そして、孫が聞き返します。
「おじいちゃんは、何になるの?」
祖父「・・・・・・・・」。
祖父は答えに窮します。その点、女性はいい。おばあちゃんは、おばあちゃんのままでいればそれでいいのですから。女性は「在る」ものですが、男性は「成る」ものだからきついのです。でも、もし、孫が私に尋ねたら、私は躊躇なく
「仏様になるんだよ」
と答えるに違いありません。道元の「発菩提心」にあやかってのことです。『正法眼蔵』の「発菩提心」の巻に釈迦牟尼仏を讃える迦葉菩薩の〈偈(げ)〉が載っています。「自未得度先度他」です。自分がまだ彼岸に渡らないうちに、一切の衆生を渡そうという「発菩提心」のことです。道元は和歌で次のように詠っています。
愚かなる我は仏にならずとも
衆生を渡す僧の身ならん
実存主義者のサルトルは、「知識人は孤独です。・・・彼は同時に、他の人間が解放されることがなければ、自己を解放することもできません」と述べています。森本和夫(『道元とサルトル』)は、かりにこの「知識人」を「菩薩」と読みかえるならば、道元とまったく同じことを言っていると指摘しています。
自分が成れないことを重々承知していればこそ、成りたいという願いが強く湧くのでしょう。恥ずかしながら、最後に、私のはかない望みを詩に託します。
小春日和のやわらかな日差し
初夏の木陰のさわやかな風
夜の闇を照らすさやかな月影
そんな人に
私はなりたい
慈しみの眼差し
柔和な微笑み
いつも感謝の言葉を絶やさない
そんな人に
私はなりたい
ただ静かにそばにいるだけで
冬の寒さに凍え
夏の暑さに疲れた人が癒される
そんな仏様みたいな人に
私はなりたい
仏に成って死んで逝きたい
キリスト教圏では、話の最後は「God Bless You!(神のご加護を!)」で終わりますが、本書は「Buddha Bless You!(仏の慈悲を!)」で締め括らせていただきます。