私の作務は食後の後片づけと洗濯と家の掃除です。すべて何かしたあとの後始末です。
風呂は家族で一番最後に入ります。湯船を洗うのはもちろんのこと、浴室の天井から壁、最後に床まで水滴をきれいに拭き取ります。入浴だけだと十五分もあれば済むのに、その後の風呂掃除に倍はかかります。茶碗洗いも、茶碗、皿、湯飲み、鍋などを洗い終わった後、洗い桶やみずや、食台をきれいに拭きます。茶碗や鍋は台所全体の一部なのですから。
尾籠(びろう)な話で恐縮ですが、トイレを使用した後、もし便器が汚れていたらきれいに拭き取ります。次の人が気持ちよく使用できるためではありません。そうしないと自分が汚れているようで気持ちが悪いのです。まるで不潔恐怖症です。私は自分がやらなければならないこれらの細々した仕事をやるからには手を抜かずに丁寧にやります。些事入魂です。修行僧がやる作務と同じで、茶碗洗いや洗濯・掃除は自分の心をきれいにする行為なのです。
話は変わりますが、トイレ掃除の話をしたついでに、余計な無駄話を一つ。
先日、ある禅寺の月例坐禅会に出席した折のことです。坐禅が終わった後、お茶を飲みながら参加者全員で語り合う場が設けられていました。一人ずつ何か一言話すことになっていました。順番が私にきましたので、最近トイレ掃除をやっていて気づいた何でもない話をしました。
トイレ掃除をするとき、これまで、柄のついたタワシで便器を洗った後、そのタワシを風呂場で洗っていました。便器は汚いという固定観念があったせいでしょう。便器でタワシを洗うという発想はまったくありませんでした。でも、考えてみるまでもなく、わざわざ風呂場で洗わなくても、きれいになった便器でタワシを洗っても何の不都合もないはずです。水を流しながらタワシで便器をごしごし洗いつづけていると、便器がきれいになるばかりでなく、タワシもきれいになります。便器を洗っているつもりが意図せずタワシを洗っていることになるのです。つまり、「タワシで便器を洗う」ことと「便器でタワシを洗う」こととは一つの事なんだ、ということに気づいたのです。
こんな七面倒臭く言わなくても、いつもトイレ掃除をなさっている主婦の方にとっては、あまりにもあたりまえ過ぎて、何を今更とぼけたことをと馬鹿馬鹿しく思われるかも知れません。が、私にとっては大発見でした。
というようなことをその座で話したら、参加者の一人の方が、「私は手で便器を洗います」と発言なさいました。ただ便器を汚いとは思わないというだけの意味でおっしゃったのだと思います。なのに、私は大人気もなく「その後、手はどこで洗われますか」といらざる質問をしてしまったのです。「もちろん、洗面台です」。その瞬間こともあろうことか「便器で洗ったら」と思わず口走ってしまいました。「物言えば唇寒し」です。ほんとにいい歳して人間が未成熟です。恥じ入って自己嫌悪に陥ってしまいました。幸い、話はこれだけで話題が別に移って救われました。
私の話の文脈からすると、タワシが手に代わっただけのことで、手を洗面台で洗うことは、タワシを風呂場で洗うことと同じではないか、「手で便器を洗う」ことと「便器で手を洗う」こととは一つの事なのだ、ということが一瞬頭をよぎったのです。でも、タワシと手とでは大違いです。タワシなら便器で洗えても、手を便器で洗うことなど到底できるはずがありません。もし相手の方が「それなら、あなたは便器で手を洗らえるのですか」と開き直られたら、頭(こうべ)を垂れながら小声で「洗えません」と答えるしかありませんでした。ここが善悪、美醜、浄垢の二元論的現世を生きている者の辛いところです。般若心経の「是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減」と何万回も唱えて、たとえ空相においては、不垢不浄なんだと頭で分かったとしても、「手で便器を洗う」ことはできても「便器で手を洗う」ことは生涯できないでしょう。空を体得するとは、つまるところ、「便器で手を洗う」ことができるかどうかにかかっているように思います。
以上が、月例座禅会のお茶会の顛末でした。こんなどうでもいいくだらないことを真剣に考えて無理矢理筋を通そうとするのが元教授の悪い点で、ここが人から煙たがられるところなのです。なにも便器で洗うことにこだわらなくても、洗面台がすぐ横にあるのですから、そこでごくふつうに手を洗えば済むことです。便器で手を洗うのは異常です。端から見ても異様です。もし人に見られたら間違いなく精神科送りです。やらない方がいいです。後悔先に立たずで、相手の方には気分を害させてしまい大変悪いことをしたと深く反省しています。いつか機会があれば詫びたいと思っています。