人生ご破算で願いましては

序説 発菩提心

五、小さな小さなミニ仏

 振り返ってみれば、これまでろくでもない人間を生きて来ました。恥多き人生でした。あの時、なんであんな人を傷つけるようなことをしたのだろうか、今なら絶対にしないのにと思いながら、今でも気がつかないままついうっかり同じようなことを繰り返しているに違いありません。そして五年後十年後、生きていればの話ですが、今を振り返って、あの時、なんであんなことをしたのだろうか、今なら絶対にしないのにと悔やんでいることでしょう。悔い多き人生でしたので、なんとしても死ぬ前にきれいに清算しておきたいのです。人生を元に戻してご破算にし、ゼロにリセットして旅立ちたいのです。

 仏教とは仏の教えのことですが、それは仏に成るための教えなのです。しかし、「人が仏に成る」ことを、お釈迦様や達磨大師の大悟のように大仰に考える必要はないのではないでしょうか。現代の生き仏と言われる鎌倉・円覚寺の横田南嶺老師の言葉に「失って初めて気づく大切なものを、失う前に気づくこと」というのがあります。なかなか難しいことですが、これが悟るということでしょう。私ども凡夫にできることといえば、せいぜい日常生活のごくふつうの経験の中で、なんでもないささやかな気づきを得ることぐらいです。いつも通っている道端に可憐な草花がひっそりと咲いています。それにふと見とれて、「不思議だなぁ」「これもいのちだよなぁ」と自然の偉大さに感動することも小さな悟りのうちです。

草花一輪

近頃、『淮南子(えなんじ)』の

 

一葉(ひとは) 落ちて天下の 秋を知る

 

という句の心境をしみじみ味わうことができるようになりました。一葉がはらはらと舞い散る様(さま)を見て、「ああ、秋だなあ」と四季の巡りを感じることは誰にでもある情感です。

 これと似た句で、中国の宋代の禅僧・宏智正覚(わんししょうかく)の禅語に

 

一花開いて 天下春なり

 

というのもあります。大自然、大いなるいのちの営みのそれぞれの現象として花が咲き花が散るのです。

 慈眼悲耳というわけではないのですが、今では、見るもの聞くもの、すべてが空の現成なんだ、ということが頭ではわかるような気がしています。

 

咲きおりぬ 野の花一輪 これ空か
鳴きおりぬ 小鳥のさえずり これ空か

 

と。その時一瞬ではありますが、自分と大自然とが溶け合ってそこに私はいません。無我です。このような小さな悟りを積み重ねること、そのことが小さな仏に成るということではないでしょうか。私が成りたいというのも、このような小さな小さなミニ仏のことです。