人生ご破算で願いましては

第0章 人生の清算

五、一からゼロ即無限へ

 アラブのどこかの国には「明日できることを、今日するな」という格言があると聞いたことがあります。お国柄ですねえ。「明日は明日の風が吹く」のですから、明日でいいことなら、明日した方がその時の状況に合致しますのでいいに決まっています。ところが、日本人は生真面目でせっかちですから、「今日の仕事を明日まで延ばすな」と「仕事一途に生きる」ことに価値を置きます。最近はこの価値観も少し揺らいでいるようですが、私は古い人間ですので「仕事一筋」という生き方をよしとしてきました。

 現役の時は、男性でも女性でも、仕事とか子育てといった、自分の生活をかけるものが「何か一つ」あるものです。今、自分のやりたいこと(願望)はきっとたくさんあることでしょう。しかし、実際にやれること(可能性)となるとぐっと数が限られます。そして今、自分がやること(行為)は一つです。現役はこの「一」を生ることが使命です。ところが、現役を退くと、やることが「何もないnothing(ゼロ)」、いや、これまでやりたくてやれなかったことを「何やってもいい、何でもありeverything(無限)」という状態に放り込まれます。いわば、「ゼロ即無限」を生きることになるのです。この「一」から「ゼロ即無限」への転換が難しいのです。新聞で、退職後は「きょうよう」と「きょういく」が何より大事だ、という記事を読んだことがあります。何でもいいから「今日用」があること、どこでもいいから「今日行く」ところが必要なのです。何かやることがないと人は生きていけません。

 一つの仕事、つまり「一」を生きるのは、それなりに大変は大変です。しかし、それさえやっていればいいのですから、心は安定しています。ところが、「ゼロ即無限」という状態は、そのような「一」という安定した拠り所がありませんから、ふわふわと空中を漂うようで、とても不安定なのです。ニーチェ風に言えば、何をやっても許されるが、何をやっても無駄、「掛けるゼロのニヒリズム」です。だから、実存不安に悩まされるのです。

 「ゼロ即無限」の状態に耐えられないものですから、特に現役時代、しかるべき仕事をしてきたという自負心を持って退職した男性が、よく「○○コンサルタント」とか「△△評論家」など、自分で勝手に肩書きを作って、それにすがって生きようとするのです。かくいう私自身、「かごしま福祉心理相談センター所長」を名乗っています。立派な建物と相談室はあるのですが、誰も相談に来る人がいないので、そろそろ看板を外そうかと考えています。いつまでも幻の「一」に執着していても虚しくなるばかりですから、名刺にはすべての肩書きを捨てて、ただ「門前の小僧」とだけ印刷しています。男は、仕事がなくなって金を稼がなくなると、家族にとって、いてもいなくてもいい、いやいられちゃ迷惑という粗大ゴミの存在になります。まったく「男は辛いよ」。

 困るのは、仕事で忙しがっている時には、読書や習い事など、あんなにやりたかったことが、いざ仕事をやめて、やろうと思えば時間だけはたっぷりあり、いつでもできるという状況になると、とたんに、色あせてつまらなく思え、やる気力が失せてしまうことです。現役のとき、何であんなにやりたかったのか不思議でなりません。やれないから、やりたかったのでしょう。何でもやれるということは、結局、何もやれないことのようです。このことが、退職後うつや実存神経症の大きな原因の一つであるように思います。

 でも、改めて考え直してみますと、「ゼロ即無限」の状態を主体的に生きることは、ある意味で人間にとって理想的な生き方なのかもしれません。この不安定な「ゼロ即無限」という在り方は、老いると自然で当たり前のことになるのですから、問題は、その状態に安心してゆったりと安らうことができるかどうか、ということです。それには宗教が大きな働きをします。現役の時には、無神論者を標榜していた人が、退職すると突然、やれ道元だの親鸞だのと言い出して豹変するのもそのせいでしょう。