人生ご破算で願いましては

第一章 初期化とネオテニー

一、万能細胞への初期化

 「ゼロへのリセット」と「初期化」とは同義です。「初期化」という言葉自体はもともと広く一般に使用されていました。が、山中伸弥教授が、分化した体細胞を最初の状態に巻き戻す四種類の初期化因子(遺伝子)を発見し、iPS細胞(人工多能性幹細胞)を開発した業績でノーベル医学・生理学賞を受賞して以来、その言葉は特別の意味をもつようになりました。たとえば、心臓病患者の皮膚細胞からiPS細胞を作り、それを心筋細胞に分化させると、その心筋細胞はゼロ歳の生まれたての心筋細胞に近い状態になるのだそうです。つまり、皮膚細胞をiPS細胞に変えた時点で、細胞寿命がリセットされ、赤ちゃん時代の細胞の状態に戻るのです。いったん細胞が分化してしまうと同じ細胞しか再生されません。たとえば、皮膚細胞からは皮膚細胞しか生まれませんが、それをiPS細胞に戻すと、それから筋肉、神経、心臓、肝臓など、二○○種類以上ある体細胞を作り出すことができるといいますから、驚きです。成熟した細胞は初期化されることによって多能性を獲得するのです。まさに万能細胞と呼ばれるゆえんです。なぜそんなことが可能かといいますと、どんなに分化した体細胞の核にも、最初の一個の受精卵と同じ設計図が組み込まれているからなのだそうです。

 この分野における世界の研究の趨勢は、「分化多能性」をもつ万能細胞から神経細胞や心筋細胞などの分化した体細胞を作り出すことにありました。言ってみれば、世界中の研究者たちは、ゼロからプラスを生みだすことに激しくしのぎを削り合っていたのです。山中教授のすごいところは、そのような厳しい世界の動向を横目で見ながら、分化とは逆の初期化を目指すという、いわばプラスをゼロに戻す逆転のビジョンを立て、その実現に成功したことです。

 驚いたことにその後、理化学研究所発生・再生科学総合研究センターの小保方晴子研究ユニットリーダーを中心とするチームによって、山中教授とはまったく異なる方法で、成熟した細胞を受精卵に近い状態へ初期化する世界初の手法が開発されました。初期化因子を細胞核に組み込むのではなく、生後一週間のマウスの体細胞を弱酸性溶液に約三十分間浸して培養するだけで新万能細胞が作れるというのです。二〇一四年一月三十日付の英科学誌ネイチャーに発表されました。この成果は、これまで、動物ではiPS細胞のように細胞核に手を加えない限り初期化は起きないとされていた生命科学の通説を覆す驚くべきものでした。この新万能細胞は「S TAP(刺激惹起性多能性獲得)細胞」と命名されました。

 山中教授のiPS細胞の作製が、定説に従って細胞核に外部から初期化因子を挿入するというきわめて人工的な操作によって行われるのに対して、STAP細胞の場合、弱酸性溶液で外部から刺激(ストレス)を与えるだけで、細胞が自律的に受精卵のような状態に巻き戻される「初期化」現象が起きるのです。しかもそれが他のiPS細胞やES細胞(胚性幹細胞)と同様の、多様な細胞に変化する能力を持つというのです。

 この研究のきっかけとなったのは、二〇〇八年、留学先の米ハーバード大で行った極細のピペット(ガラス管)を使ってマウスのさまざまな細胞から幹細胞を取り出す実験でした。この実験で想定以上の幹細胞を取り出すことができ、その結果から、氏は、細胞は細い管を通ることでストレスを受け、いろいろな細胞に変化する前の幹細胞に戻るのではないか、という仮説を立てました。この仮説を検証するために、毒や圧迫といったストレス条件をさまざまに変化させ、試行錯誤の結果、酸性溶液という厳しい環境を生き延びた動物の細胞が初期化され、若返って、多能性を獲得するという画期的な成果が達成されたのです。

 植物では、環境の変化に応じて細胞が未熟な状態に戻る例があることは知られていたそうですが、動物では起こりえないというのが定説でした。ですから、一度目の投稿では、ネイチャーから「何百年の細胞生物学の歴史を愚弄している」と痛烈に批判され原稿が突き返されたそうです。それほどの画期的な成果だったのです。

 ところがその後、こともあろうことか、画像や表現に不自然な点があり文章に無断引用の箇所があるなど指摘され、頼りにしていた共著者や所属している研究所から論文撤回を求められるなど、小保方氏は四面楚歌の状況に追い込まれました。毀誉褒貶の激しい世評の中で、死ぬほど辛い思いをされていることでしょう。発表論文に作成過程で重大な過誤が見つかり、理化学研究所の調査委員会は二点について「画像の改ざんと捏造があった」と断定しましたが、小保方氏は不服申し立てをしていました。その後も問題指摘がやまず、形勢不利な中で、とてつもなく異常な緊張を強いられながら本人自身の手で再現実験が試みられました。できればいいなと心から願っていましたが、残念ながら、うまくいかず、結局、論文取り下げのやむなきに至りました。

 一時期、傍から見ると、まるでガリレオの宗教裁判の様相を呈しているかのようでしたが、論文捏造ということになると、話は別です。日本の科学界に大きな汚点を残しました。しかし、論文の核心であるSTAP細胞の存在の有無についてはなかなか微妙で、共著者で指導教授でもあった米ハーバード大学のチャールズ・バカンティ教授が「誤りであるという説得力のある証拠は存在しない」と取り下げに反対していたように、存在しないことを証明することもでき ないみたいです。毎日新聞の記者、須田桃子がこの論文捏造のプロセスを執拗に追求し、『捏造の科学者』という本にそのいきさつを事細かにまとめています。それを読むと、完全に勝負あった、という印象です。

 でも、未練なのでしょうか。細胞生物学には門外漢でまったく無知なのに、こんな幼稚な疑問をもって申し訳ありません。同じ生命体から植物と動物が進化したのですから、植物細胞に 起こることが、どうして動物の体細胞では絶対に起こらないと言い切れるのでしょうか? 定説は覆されるためにあるのです。ポパーの「反証可能性」でいわれるように、科学理論はつねに反証に対して開かれた暫定的仮説としての性格をもっているのですから。今のところ人知の及ぶところではないということだけのことではないでしょうか。

 昨年(平成二十六年十二月十日)にノーベル物理学賞を受賞した赤崎勇・天野浩・中村修二の御三方は、世界中の科学者があきらめ「不可能」とまでいわれた窒化ガリウムによる青色発光ダイオード(LED)の結晶作製に人生をかけて成功されました。物理学賞の授賞理由で述べられていたことですが、十九世紀後半に米国のエジソンが白熱電球を発明した時、彼は二千 回の実験に失敗したけれども、「白熱電球を作れない二千通りの方法を見つけた」と言ったそうです。赤崎さんたちの成功も、二千回以上の実験の失敗の結果なのです。気の遠くなるほど忍耐のいる仕事です。でもこれが研究者の宿命です。

 小保方さんもこれまで数え切れないほどの作れない方法を学ばれたことでしょう。科学者としての資質が完全に否定された現在では無理でしょうが、まだお若いのですから、健康が回復して精神的にも元気を取り戻されたら、捲土重来を期して、再挑戦されることを心から望んでいます。確か笹井芳樹さんの遺書にもそのようなことが書かれていたという記事を読んだことがあります。笹井さんの言葉は小保方さんに生涯背負いきれない重荷を負わせることになるに違いないとは思いますが、世界的注目を集めた研究の先駆者として通らなければならない試練の茨の道です。これからも、あきらめずに頑張り通して、この困難を何とか乗り越え、STA P現象の実証に取り組んで欲しいのです。部外者の無責任な願いですが、ファンのひとりとしてそう願わずにはいられません。それが、故笹井芳樹氏へのなによりの供養になると思います。

 そのためには、マウスの体細胞がストレスフルな極細のガラス管や弱酸性溶液の厳しい環境を生き抜いたように、ここは耐えに耐え、自分自身がSTAP細胞のように初期化して、再度研究者として分化・成熟を遂げられることです。あるともないとも予断を許さない厳しい状況ですが、「それでも地球は回る」とつぶやきながら。

 なぜ、私がこれほどまでに思い入れがあるのかといいますと、STAP現象の話をはじめて知った時、「成熟した体細胞をストレスフルな刺激によって初期化し、新たな万能性を与える」という仮説と、仏教の説く「成熟した大人が難行苦行の末に赤ちゃん返りをして仏の境地に達する」という教えとがあまりにもぴったりと一致していることに感動したからなのです。宗教ではこのことが永い年月にわたって体験的に証明されているのです。これを数で公式化すると、「一にある操作(乗除の演算)を加えてゼロ化し、無限性を生成する」という表現になります。これが本書の基本命題なのです。このことについてはまた後で詳しく触れることになります。

閑話休題三   ピペット現象としての出産

 今年、四十八歳になった私の長男はテンカン発作をもつ最重度の知的障害者です。体はもう立派な大人なのですが、心にはまだ三歳に満たない幼児が宿っています。

 その原因は不明なのですが、出産障害がその一因ではなかったかと考えています。なにせ早朝の五時頃陣痛がはじまり生まれたのは翌朝の十時過ぎ、なんと二十九時間もかかったのです。早期破水で頭は見えているのに、なかなか産道を通過することができず、結局は吸引分娩という処置が執られました。出産直後の頭は、産道で締め付けられたせいで七福神の福禄寿みたいでした。その時は、まさかこの子が重度の知的障害児になるとは思いもしませんでした。長時間、酸欠状態だったのに、よくぞ死なずに生まれてくれたと感謝しています。

 極細のガラス管(ピペット)を通して細胞にストレスを与えるという話を知ったとき、ST AP細胞にとってピペットは産道かと思いました。私の子は、産道を通過するときすごいストレスを受けて、細胞と同じように初期化されたものの、残念ながら、初期の状態のままで分化も成熟もできなかった細胞みたいです。ただ、置かれた場所で野の花のように素直に生きています。通過して生き残った細胞たちもさぞ苦しかっただろうなぁ、と涙が出ます。

 母親の胎内は、あらゆる欲求が即座に満足されるユートピエアの世界です。出産は、まるで天国みたいな世界からままならぬ苦悩に満ちた現実世界へ産み落されることです。その最初の体験が、STAP細胞のピペット体験と同じ、狭い産道をもがき苦しみながら通過することです。胎児から赤ん坊へ移行するための厳しい通過儀礼です。ここで、障害を受けたり、ひどい場合には死産になったりすることもあるのです。この出産という苦しい体験が、すべての人間に共通するトラウマ(心的外傷)であると精神分析学者は主張します。生れて最初にあげる産声は、生の喜びではなく、恐怖の叫びだという人もいます。エドバード・ムンクの有名な絵「叫び」を思い出します。