人生ご破算で願いましては

第二章 ゼロを深く豊かに

二、みすゞ 慈しみのまなざし

 みすゞは、私の母と同じ明治三十六(一九○三)年生まれです。西条八十に「若き童謡詩人の中の巨星」とまで称賛されながら、二十六歳の若さで世を去りました。

 みすゞの幼心(おさなごころ)には、幼児期の原体験の心象風景とともに仏教の根本思想がDNAのように刷り込まれています。これは日本人なら誰の心にも奥深く通底音となって宿されているものです。だから、それを素直に詠ったみすゞの童謡が、私たちの心の琴線に触れて感動を呼び起こすのです。

 現代はみすゞブームでもあります。「ゼロを深く豊かに」生きた良寛を念頭におきながら、みすゞの童謡を読んでみましょう。前述の良寛の「つきてみよ・・・」と同じ詩想で、みすゞは「木」という詩を書いています。

 

お花がちって
実がうれて、

 

その実が落ちて
葉がおちて、

 

それから芽が出て
花がさく。

 

そうして何べん
まわったら、
この木のご用が
すむかしら

 

 たえず元に戻って円のように繰り返される生命(いのち)の特徴を素直に可愛らしく表現しています。心にしみる詩です。

 みすゞは、また、この世のすべてのものはつながり合って一つの輪をなしているという仏教の根本思想を「はちと神さま」で詠っています。

 

はちはお花のなかに、
お花はお庭のなかに、
お庭は土べいのなかに、
土べいは町のなかに、
町は日本のなかに、
日本は世界のなかに、
世界は神さまのなかに。

 

そうして、そうして、神さまは、
小ちゃなはちのなかに。

 

 入れ子式に小さなものが大きなものの中へ順次に組み入れられています。が、最後のオチで、一番ちいさなもののなかに一番大きなものが入っている、という円環的入れ子式になっています。そして、蜂も花もそして神さまさえも、みんな大きな宇宙の中ですべてつながってひとつになっていることをとても短い言葉で綴っています。

 また、良寛が無とゼロの境地に徹することによって「世間の人が光を見るところに闇を見、生を見るときに死を見た」ように、みすゞには、世間の大人には見えないものが見えていました。「星とたんぽぽ」と題する童謡です。

 

青いお空のそこふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまでしずんでる、
昼のお星はめにみえぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。

ちってすがれたたんぽぽの、
かわらのすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根はめにみえぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。

 

 これもよく引用される詩です。そこには見えない大切なものをごく自然に幼子(おさなご)の心で見すえようとする、仏の慈悲のような、みすゞのまなざしがあります。

 みすゞの詩はどれも好きですが、中でももっとも私の心を揺さぶるのは次の詩です。

 

子供が 子雀つかまえた
その子のかあさん 笑ってた
雀のかあさん それみてた
お屋根で 鳴かずに
それ見てた

 

 ググッときます。人間の母親にではなく、雀のかあさんの方に身を寄せているのです。みすゞの詩はどれも、私たちの誰も気づかない小さなもの、弱いものに優しい慈しみのまなざしがそそがれています。彼女の代表作は何と言っても「大漁」でしょう。

 

朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ
はまは祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう

 

 この詩でも、みすゞの心は、大漁でお祭りのようににぎわっている浜辺ではなく、その影にある海の魚の哀しみをみつめています。「風の画家」と呼ばれる童画家・中島潔は、この詩に表現されているみすゞの詩想にいたく心酔し、それを清水寺の襖絵として描いています。圧倒的な存在感のある大作です。遠くを見つめる少女(みすゞ)の回りを鰯の大群が生命の息吹をあげて飛んでいます。それは生命の尊厳、いのちへの慈しみ、そして生きるものの美しさと哀しみが見事に表現されています。みすゞの詩はいのちへの賛歌だと言われます。

 こんなにも優しく、せつなく、哀しい思いの深い童謡を書けたのは、知恵づいて分別をもった大人たちがすっかりなくしてしまった無分別の幼心を、みすゞが豊かにもっていた何よりの証拠です。