人生ご破算で願いましては

第二章 ゼロを深く豊かに

四、そういうものに わたしはなりたい

 ついでに、みつをのよく知られた詩をもう一つ。

 

自分が自分
にならないで
だれが自分に
なる

 

 これは肩書きを捨て、伝統的な書の技巧を捨てて、何者でもない自分を生きるみつをの覚悟のほどを表明した書です。ここで、自分がなる自分とは、どういう自分なのでしょうか。

 先に、良寛が無為の人として、ただそこにいるだけでまわりにいる人全体が和み安らぐという解良栄重(けらよししげ)の『良寛禅師奇話』に出てくる話を紹介しました。みつをの書にも「ただいるだけで」という同じことを詠った詩があります。

 

あなたがそこに
ただいるだけで
その場の空気が
あかるくなる

 

あなたがそこに
ただいるだけで
みんなのこころが
やすらぐ

 

そんな
あなたにわたしも
なりたい

 

 最後の締めの言葉、「そんなあなたにわたしもなりたい」にみつをの深い思いが込められています。みつをがなりたい自分とは、ただいるだけで、場があかるくなり、人のこころがやすらぐ、言ってみれば無為の良寛みたいな人のことだったのです。

 「そんなあなたにわたしもなりたい」の言葉ですぐ思いつくのが、例の宮沢賢治の「雨ニモマケズ」です。保坂俊司はこれを賢治版の「般若心経」だといっています。この詩の最後の結末も「サウイフモノニワタシハナリタイ」でした。賢治のなりたい者というのは、無欲で決して怒ることなくいつも静かに微笑みをたたえ、あらゆることから我欲を離れ、みずからは質素な生活に甘んじて、四方八方に出かけて行っては困った人たちを助ける、まるで菩薩行の行者のような存在であり、かつまた、末尾五行で詠われる、褒められることも苦にされることもない「デクノボー」みたいな人でした。

 デクノボーとは、役立たずのまぬけ、愚か者のことです。良寛も自分のことを大愚(たいぐ)と呼び、親鸞は愚禿(ぐとく)と自称していました。仏教に深く帰依した人はみんな才気走った小賢しい知恵よりも愚鈍な在り方の方が仏に近いと考えていたのです。「大智は愚の如し」という言葉があります。先にも述べましたが、師国仙和尚が良寛に贈った印可の偈(げ)も「良(りょう)ヤ愚ノ如クシテ道転寛(みちうたたひろ)シ」でした。これは最高の褒め言葉で、「大愚」というのは師国仙の良寛への贈り名でした。愚であることが仏の大道に通じていたのです。

 賢治が熱心な日蓮宗の信者だったことはよく知られています。その彼が「雨ニモマケズ」に込めた熱い誓願は、仏や菩薩に限りなく近い慈悲心や菩提心を持った人間、もっと言えば、菩薩そのものになりたいということでした。中村稔(『宮沢賢治ふたたび』)も言っています。「賢治は、普通の人間以上の仏のような・・・菩薩のような存在を思い描いているのだと考えざるをえないのです」と。また、彼はとくに「南ニ死ニソウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ」の言葉を取り上げて、死を目前にした人に向かって、死ぬのはちっとも怖いことではない、というのは仏にしか言えない言葉であって、なまじの仏教徒が口に出せるものではない、とも述べています。死の病床に臥せっていた賢治は、叶わぬ夢と知りつつ、もし健康が回復してもう一度やり直すことができるのなら、そういう者になりたいと切実に祈らずにはいられなかったのでしょう。

 みつをの「あなたがそこに/いるだけで/その場の空気が/あかるくなる・・・みんなのこころが/やすらぐ」と、賢治の「決シテイカラズ/イツモシズカニワラッテイル」という言葉は同一の人間像を連想させます。

 禅宗とはいえ、みつをも同じ在家の仏教徒です。結局は、自分がなる自分とは、賢治と同じ真の自己、つまり仏のことだったろう、と私は勝手に解釈しています。当然、それは自分でなる以外に、他の誰もなることのできないものです。

閑話休題五常不軽(じょうふきょう)菩薩

 法華経に出てくる菩薩の話です。

 昔々、釈迦誕生以前のずーっと大昔。まわりの人たちから、常不軽と蔑称で呼ばれていた一人の行者がいました。この行者は、すべての人が成仏すると堅く信じていましたので、逢う人ごとに誰彼の区別なく、「私はあなた方を軽んじない、あなた方は皆、菩薩道を修行して、仏となる方々なのだから」(中村稔)といつも語りかけていました。これを聞いた相手はからかわれたと勘違いして、愚弄するにもほどがあると憤り、罵詈雑言を浴びせ、石や瓦を投げつけたり、杖で殴ったりしました。それでも常不軽菩薩は怯むことなく、この礼拝賛嘆の行をやめようとはせず、広く人びとのために法華経を説きつづけて、遂には成仏することができました。この常不軽とは誰あろう今の釈迦牟尼仏である、というのです。

 実は、原子朗編著の『宮沢賢治語彙辞典』に、「デクノボーのイメージを教典に求めるなら、・・・それは法華経に現れるこの常不軽菩薩であることがわかる」とあります。賢治がデクノボーのイメージを常不軽菩薩に見たとする考え方はかなり一般的なようです。

 私は、常不軽菩薩が「あなた方」と語りかけるところを、自分に返照して、「私は自分を軽んじない、私は菩薩道を行じて、仏になる身だから」と常々自分に言い聞かせることにしています。菩薩道とは、利他行のことです。何と不遜なことをと思われるかもしれませんが、ここでいう「私は」というのは、釈迦の「天上天下唯我独尊」の唯我と同じで、人は誰でもみんなそれぞれに「自分は」という意味です。常不軽菩薩の言葉は、石をもって返すのではなく、私たち一人ひとりが自分だけに語りかけられた言葉として真摯に受けとめ、自分自身に語りつづけなければならない大切な言葉なのです。これは、唯円の『歎異抄』のなかに述べられている「弥陀の誓願をよくよく考えてみると、つくづくそれは親鸞一人のためなり」と同じです。