人生ご破算で願いましては

第三章 歩行(ほぎょう)が人間を仏にする

六、経行(きんひん)は歩行禅

 千日回峯行は荒行中の荒行、苦行中の苦行です。この対極にあるのが、経行です。回峯行の山歩きを動とすれば、経行は静です。経行は、古くよりインドで健康法として実践されていたものが修行法として仏教に取り入れられたものです。経行の「経」とは、織布の縦糸のことで、直線的に歩くから「経行」と呼ばれるのです。坐禅と坐禅の間や坐禅の終わりに身心を調えるために坐禅堂内をまっすぐにゆっくりと緩歩するのです。

 山頭火の行乞放浪の旅や山岳修行の回峯行などは、在家のふつうの者には考えも及ばないものですが、経行ならできないことはありません。私が不思議に思うのは、宋から帰国して最初に著した道元の『普勧坐禅儀』には坐禅の意義と作法についてあれほど細かく具体的に記述されているのに、経行については一言も触れていないことです。『正法眼蔵』の「行持」の巻には単語だけ記された箇所がありますが、何の説明もありません。道元に随侍し、永平二世を嗣いだ懐奘(えじょう)の『正法眼蔵随聞記』にも経行については何も記述されていません。随侍しはじめた四年間の師の教えを聞いたままに書きとめたはずなのに、道元が話さなかったのか、話されたとしても記録するまでもないと軽く聞き流したのでしょうか。だからでしょう。禅宗においては、「歩く」ことは「坐る」ことほどには重視されていないように思います。

 在宋中に先師の天童如浄禅師から学んだことを日記風に綴った『宝慶記(ほうきょうき)』には、経行のやり方について師自らが歩いて見せてくれたことが記録されています。水野弥穂子の訳によりますと、「僧家の僧堂に寓する工夫の最要は、直に須く緩歩すべし」と道元に伝えています。坐禅から立って経行するときは、一息半趺(いっそくはんぷ)(あるいは一息半歩)の法を行わなければなりません。一息吐いて吸う間に半歩だけ前に進むのです。半歩というのは、爪先から踵までの半分を歩幅として交互に足を出すことです。ですから、傍から見ると同じ所に立っていて動いていないかのようです。坐禅は静中の工夫、経行は動中の工夫と区別されていますが、経行はむしろ動中の静、静中の動の工夫といえるものです。手は叉手(しゃしゅ)といって、左手の親指を内にして握り、手の甲を外に向け、胸に軽く当てて、右の手のひらでこれを覆います。まず姿勢を正して静かに呼吸を調え、足を踏み出すときは必ず右足から出し次に左足を出します。目は前方を俯瞰し、ゆっくりとまっすぐに歩きます。もし方向を変えなければならないときは、必ず右まわり、これを順行といいます。左に曲がってはなりません。歩くときの姿勢はかがんだり仰向けにならず、背筋をまっすぐに伸ばします。上半身は坐禅とまったく同じで、足だけが動くともなく静かに前へ進むのです。

 このように『宝慶記』に、経行の作法については詳しく書かれているのですが、何のためにそうするのか、その目的について如浄禅師からどう習ったのかは一切記されていません。

 螢山(けいさん)禅師の『坐禅用心記』にも、経行の歩き方について記した箇所があります。「経行の法は、一足恒(つね)に半歩なり。行(ゆ)けども亦(また)行(ゆ)かざるが如く、寂静にして動(どう)ぜず」と道元禅師とまったく同じ表現で書かれています。しかし、何のためにやるのかというと、坐禅中に眠気が起こったら、目を大きく見開いたり、体を動かしたり、いろいろやってみてどうしてもだめなときには、「坐を起(た)って経行すべし・・・順行して若し一百許歩(いつひゃくこほ)に及べば昏睡必ず醒めん」と眠気醒ましの手段の一つとして行うことになっています。これを受けてか、禅宗では、眠気を醒ますために坐禅のかたわら補助的に経行が行われます。

 しかし、眠気を醒ましたり、足の痺れを解いたり、疲れを休めるためだけであれば、何で一息半趺の法というような厳密な作法を定めて極めて動きを抑制した調身・調息・調歩を行う必要があるのでしょう。なぜ右足から出したり右まわりの順行をしなければならないのでしょうか。別にそんなややこしいことをしなくても、ふつうに歩いてもいいし(そうする宗派もあります)、手足を伸ばして屈伸運動したり、軽いストレッチ体操をした方がよほど効果的です。

 『宝慶記』の四十二段に、釈迦が坐禅から起(た)って経行した遺跡が西インドのウディヤーナ国に残されていることを、如浄が語って聞かせてくれたとあります。現在でもブッタガヤの大塔周辺に経行廊があり、釈迦が経行を行ったと言い伝えられています。釈迦在世時にはすでにインドで実践されていたのです。つまり二千数百年、あるいはもっと前から続けられていたということです。単なる眠気冷ましや疲れ休めの手段以上の何かがなければこんなに続くはずがありません。言ってみれば、手の組み方と坐る歩くの違いはありますが、あとはまったく坐禅と同じ行として行われていたに違いありません。歩行禅といわれるゆえんです。修禅法の一つとして緩歩するということは、その一歩一歩の動きに成り切って、そこに精神を集中させ、足で地面(床)を体感するということです。坐禅という静禅と経行という動禅は一体のもので、この二つの行為の中に自己を解体し融合することが深い修行になるということではないでしょうか。

 坐禅を如来の姿とすれば、経行は菩薩の姿ということができるかもしれません。如来の世界から現世へ移行する中間段階に位置する行ということです。私も朝晩の坐禅の後には必ず経行を実践しています。自分でやってみてわかることですが、経行で坐禅中と同じ呼吸を維持しようとすれば、一息半歩しかできません。ふつうに一歩踏み出すと呼吸がふつうに戻ってしまいます。