人生ご破算で願いましては

第四章 同じ事の繰り返し

二、一歩=一呼吸=一掃き

 ミヒャエル・エンデの名作『モモ』に登場する道路掃除夫ベッポの話も「行為の二重作動」の好例です。道路を掃除している彼の仕事ぶりに禅の修行者の影を見ることができます。次の引用文は、まるで一足半趺の経行(きんひん)を思わせます。

 

道路の掃除を彼はゆっくりと、でも着実にやりました。ひとあし進んではひと呼吸(いき)し、ひと呼吸(いき)ついては、ほうきでひとはきします。ひとあし―ひと呼吸(いき)―ひとはき。ひとあし―ひと呼吸(いき)―ひとはき。

 

 こうして、ベッポはいまやっている仕事に全精神を集中することによって、禅でいう「三昧」の境地に達するのです。この「一歩=一呼吸(ひといき)=一掃(ひとは)き」を重松宗育(『モモも禅を語る』)は、「まさにベッポ流の『数息観(すそくかん)』に他ならない」と言っています。

 『モモ』の作品のなかで、ベッポの人生観を述べた一節が、モモの「聞く力」のくだりと並んで、もっとも強い印象を読者に与える部分です。たとえば、たくさんの量をこなさなければならない仕事のとりくみ方を、モモにこんなふうに語っています。

 

「なあ、モモ、とっても長い道路を受け持つことがよくあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない。こう思ってしまう」。
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 「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息が切れて、動けなくなってしまう。こういうやりかたは、いかんのだ」。
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 「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん。わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸(いき)のことだけ、つぎのひとはきのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな」。
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 「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃだめなんだ」。
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 「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶ終わっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからん」。彼は一人うなずいてこうむすびます。「これがだいじなんだ」。

 

 これは逆説的な真理です。「一歩=一呼吸(ひといき)=一掃(ひとは)き」の動作に神経を集中することによって、意図せず仕事が楽しくなり、いつのまにか終わっているのです。重松の言葉を借りると、このように、エンデは、ベッポの口を通して、大きな仕事をする時の心構えを説き、見事に三昧の智慧を描いているのです。ただひたすら、「今ここに心が居合わっている」のです。これが禅の極意なのです。

 坂村真民は、好きな言葉の一つとして、ベッポの語り口とまったく同じ内容のゲーテの言葉を挙げています。「いつかはゴールに達するというような歩き方ではだめだ。一歩一歩がゴールであり、一歩が一歩としての価値をもたなくてはならない」。もしかすると、ミヒャエル・エンデの頭にはこのゲーテの言葉があったのかもしれません。

 本書を執筆する時もよく似た感じでした。今書いている一節にエネルギーを集中して、言ってみれば、一書=一読=一考、一書=一読=一考、を何度も何度も繰り返しているうちに、ふと気がつくと一冊分の原稿ができ上がっていました。とても楽しい作業でした。

 何をやるときもそうですが、やり始める時は気が重くても、やっているうちにいつの間にか気が入って、気楽になり、時が過ぎるのも忘れるほど夢中になります。物事をやり遂げるコツは、楽しいことをやるのではなく、楽しくなるまでやりつづけることです。