人生ご破算で願いましては

第四章 同じ事の繰り返し

三、ハチドリの物語

 南アメリカの先住民に伝わる『ハチドリの物語』は、禅的にも意味深いとても感動的な物語です。世界中を共感の渦に巻き込んでいます。わが国でも、文化人類学者の辻信一監修で『ハチドリのひとしずく―いま、私にできること』と題する本になっています。短いのでそのまま引用させていただきます。

森が燃えていました。
森の生き物たちはわれ先にと逃げて行きました。
でも、クリキンディという名のハチドリだけはいったりきたり、くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは火の上に落としていきます。
動物たちがそれを見て、「そんなことをしていったい何になるんだ」と笑っています。クリキンディはこう答えました。
「私は、私にできることをしているだけ」

ハチドリ

 私たちは、この物語をついハチドリの行為は立派で、逃げ出した動物たちは自分本位で無責任だと非難がましく読みがちです。でも先住民にはそういった善悪の考えはなかったのではないか、と辻信一は次のように解説しています。

 

 たしかにクリキンディは、小さなからだに似合わぬ大きな勇気をもっているように見えます。それにしてもなぜ、ほかの動物たちは山火事を消そうともしないで逃げ出してしまったのでしょうか。それは彼らが意気地なしで卑怯だったからでしょうか。・・・大きくて力もちのクマは、しかし、幼い子グマたちを守るために避難したのかもしれません。脚の速いジャガーは、しかし、うしろ足で火に土をかけることに気がつかなかっただけかもしれません。雨を呼ぶことができる雨ふり鳥たちは、しかし、水で火を消せるということを知らなかっただけかもしれません。

 

 この一文には、逃げ出した動物たちに対する暖かく優しいまなざしが感じられます。動物たちはけっして臆病でも卑怯でもなく、彼らにもそれぞれそれなりの事情があったのでしょう。

 あとがきで辻は、「とべ、クリキンディ」の歌の歌詞を紹介しています。

 

とべ、とべ、クリキンディ
私は私にできること、あなたはあなたにできること
火を消すためのひとしずく、いのちのためのひとしずく・・・

 

 私たちは、ともすれば、他人に対して「そんなことして何になるんだ」と言い、自分自身に対しても「こんなことして何になるんだ」とつぶやいているのではないでしょうか。辻に指摘されて、私自身がまったくそうだ、と気づかされました。坐禅するときも、読経するときも、写経するときも、また日常の細々した生活をしているときも、「俺、今、何をやっているんだろう。こんなことして何になるんだろう」と内なるつぶやきがいつも耳元にささやきかけます。この本の原稿を書いているときも、同じ思いに悩まされつづけました。掛けるゼロのニヒリズムがどっかと心に居坐って、何をするにも無意味感と虚無感に苛(さい)なまれるのです。でも仏教は「無駄をただやりつづける」ことの大切さを教えています。この教えを愚直に守ってやりつづける以外に生きようはありません。人は何のために生きているのでしょうか。ただ生きるために生きているのです。ただそれだけのこと、他に何の理由もありません。

 このクリキンディの言葉で思い出したのですが、ルーマニアの作家ゲオルギューの言葉に「たとえ明日が世界の終末であろうとも、私は今日リンゴの木を植える」というのがありました。この言葉を最後の最後まで希望を捨ててはならないという意味に解釈する向きもありますが、私は、無駄でも、今日自分にできること、自分がやらなければならないことを、今日やるまでのことだ、と無味乾燥に解釈しています。それが人間として生きる道だからです。

 

 話をもとに戻しましょう。たったこれだけの物語です。一ページに一行ずつ書かれています。本の帯には、「私たちはいま、地球温暖化という大問題に直面している。ハチドリの物語のなかの燃えている森は、地球のことだ」とあります。また、本の「あとがき」では、ケニアの環境運動家・ワンガリ・マータイさんの話が紹介されています。「この短いお話しにすべてがいい尽くされていると思うの。この惑星には大きな問題がいっぱいで、それを考えるだけで気が遠くなりそう。自分にできることなんか何もない、と思いがち。でもどんな困難の中でも私たちにできることはちゃんとある。ひとりひとりがハチドリなの」。こう言うマータイさん自身は、砂漠化した土地に木を一本一本植え続け、人々のこころに平和の種を蒔きつづけていたそうです。その姿こそ、燃える森に水のひとしずくを落とし続けるハチドリそのものです。

 絵本作家の草場一壽もこの物語を取り上げて、絵本の最後のまとめで同じことを書いています。「あまりにも大きな問題に取り囲まれている私たちは、ともすれば無力感に押しつぶされそうになります。でもそんなときはこのハチドリのことを思い出してください。さて、燃えていたあの森はそのあとどうなったでしょう」。どうなったか、その後の結末は誰しも気になるところです。それは、想像の世界ですので、人それぞれに様々な物語がありえます。氏は、保育園の子どもたちがどのような物語を作るか知りたくて、つぎのように問いかけました。

 「このハチドリは本当にね、大きな大きな山火事のなかで、一滴を運んでは落としていく。でも大きな山火事ですから、下に届く前にたぶん水蒸気となって消えてしまうと思うんです。でも、百回、千回、一万回、今日終わったら、一週間、一ヶ月、一年、消えるまでこのハチドリは続けていくんです。・・・こうやって身も心も羽も壊しながら続けていくハチドリを見たら皆さんどう思いますか」と。

 そしたら、子どもたちはこういう答えを出したそうです。

 「これを見た森の動物たちは、私も私にできることを何かやろう。そういう思いで心が一つに繋がった時、天は応えて大雨を降らせてくれました。そして森の火事は無事消えました」と(『生命尊重ニュース』三○巻三三九号より)。

 物語としてはとてもロマンティックな結末ですが、現実は厳しく、いったん山火事が起こると、火は何ヶ月も燃え続け、森はなくなってしまいます。

 ハチドリがやったことは無駄なことだったのでしょうか。

 私の物語はこうです。燃え尽きてなくなった森は、何年かすると必ず再生します。それが大自然の摂理ですし、生命の偉大さです。森が再生すると、動物たちも帰って来ます。われ先に逃げ出して何もしなかった動物たちには、ただもとの何の変哲もない日常が戻ってくるだけです。でも、命がけでひとしずくの水を運びつづけたハチドリは何かが違っています。自分も大自然の一部として大切ないのちを生きていることに深く気づいて、同じもとの森がまったく別様に新鮮に体験されるはずです。そして、今あるもとの平凡な生活がありがたいことと感謝の念が湧き、より豊かな充実感をもつことができるでしょう。

 ちょっと仏教ぽくて結末が臭い。それもそのはず、論点先取で、同じ行為(ひとしずくの水を運ぶ)をあかず繰り返すことが(行(ぎょう)となって)意図せず別の効果(悟り)を生むという、先述の「行為の二重作動」を言わんがための例として「ハチドリの物語」を引用したのですから。

閑話休題八「同じだからいいんですがね」

 いつのことだったか。うちの施設の給食の女性職員が仕事が終わって帰宅されるとき、「毎日毎日、同じ仕事で大変ね」と労をねぎらったことがありました。すると、その職員が「同じだからいいんですがね」と答えたのを聞いてはっと気づくものがありました。私たちは、心のどこかで、変化は善で、同じことの繰り返しは悪だという気持ちをもっています。

 「変えよう、大丈夫、私たちにはできる(Change,yeswecan!)」。ご存じの、オバマ大統領が選挙運動で使ったキャッチフレーズです。オバマが使った「Change」は、他動詞でしょうか、自動詞でしょうか。むろん、他動詞です。「何かを変えよう」という主張であって、「何かが変わる」ということではありません。

 でも、変えるのは善で、変えないのは悪なのでしょうか。本当に変えた方がいいのでしょうか。それよりも何よりも、いったい変えることができるのでしょうか。オバマは、彼の最大の政治課題であった、地球上から核兵器を廃絶することができたのでしょうか。「変化させるのが自分たちの使命だ」と思い込むのは人間の思い上がりで自己満足に過ぎないのではないか。心理療法家の端くれの一人としていつも悩まされてきた問題でした。良寛は人を変えることができないことを心底知っていました。

 家族療法では、「同じ事を繰り返せば、同じ事が起こる」と簡単にいいますが、同じ事を繰り返しても同じ事が起こるとは限りませんし、刻々と変化する状況のなかで、そもそも、同じ事を繰り返すこと自体が不可能です。随分前の話です。テレビで「羊羹のとら屋」の社長がインタビューに答えているのを見たことがありました。「とら屋の伝統の味をどうやって守っておられるのですか」という質問に対して「同じとら屋の味を守るには、その時代その時代によって微妙に味を変えるように工夫しています。甘さに対する江戸時代の味覚と現代のそれとは違いますから」。こんな趣旨だったと記憶しています。同じ味を守ろうとすれば、おのずから変わらざるをえないのです。

 これを端的に言い表したのが、「変われば変わるだけ同じまま」というフランスの諺です。逆説心理療法では、これを逆手に取って「同じままであるほど変化する」ということを指導原理にしています。問題を抱えて悩んでいるクライエントが、変わろう変わろうとあがけばあがくほど、変われない場合、クライエントに「変わるな」と処方するのです。するとなぜかひとりでに変わってしまうことがあります。とても逆説的ですが、事実です。同じ事の繰り返しによっておのずから起こる変化は、いうまでもなく、自動詞です。日本人はこの自動詞の在り方を自然に身につけているように思います。

 先の職員の返事で気づかされたのも、恙なく日々明け暮れる、毎日毎日の平凡な同じ生活の繰り返しがどんなに在り難いことで、またどんなに幸せなことか、ということでした。