人生ご破算で願いましては

第五章 ゼロと空とは双子の従兄弟

五、空は一草なり

 よく混同されますが、無が空なのではありません。両者は明確に区別しておく必要があります。空は決して存在論的に「有に対する無」のことではありません。二元論的対立を超越したものなのです。

 無は文字どおり「何もない」ということですが、空は「現に今ここに一輪の花が咲いている(そしてやがて散る)」というそのものの存在の仕方のことです。今目の前に雨に濡れて咲いているアジサイの花は、あまりにもありありと鮮やかにリアリティをもって存在していますので、つい他に依らずしていつまでも変わるこのなくそれ自体として実体的に存在していると見誤りがちですが、それは幻想に過ぎません。

 先に人間の体は、川の流れの渦やローソクの炎のように、絶えず新陳代謝によって細胞が入れ替わっているという話をしました。現象界はそれ自体としては実体のない空なのです。ただし、この世のあらゆるものは、実体としては存在しないけれども、他に依ってたえずダイナミックに変化する現象としては存在しています。

 「本来、〈空なるもの〉が偶縁によって今ここに現に縁起している、と同時に縁しだいで別様にも縁起しうる」というものの在り方が、空論の基本的な考え方です。ただし、空論で重要なのは、可能性一般ではなく、現にある世界のリアリティが、可能な在り方についての第一のかつ取り替え不能な事実であり、そこからみて別様にもありうるものに言及しているのです。姿形ある現象は縁によってやがて消滅する定めにあります。無常であればこそ、「現に今ここにこうしてある」ということがかけがえのないものであり、そのままで真実の相をあらわしているというのです。般若心経の有名な「色不異空」、「色即是空」では最初に色が来ます。個々の現象なしに空は存在しえません。「まず始めに現象ありき」です。

 空と色の関係は、海水と波に喩えられます。波は現象ですから、大波小波、さざ波、怒濤など絶えず変化し生滅を繰り返します。でも、海水はその表面がどんなに波立っていようが凪いでいようが、海は海のままで何の変化もありません。同じ事を、白隠禅師は『坐禅和讃』の冒頭で

 

衆生本来仏なり 水と氷りの如くにて
水を離れて氷りなく 衆生の外に仏なし

 

と詠んでいます。衆生を色、仏を空と置き換えてもなんら差し支えありません。空と色とを水と氷りに喩えているのです。水と氷りとは、その本質はまったく同じです。でも、氷は固体で有限の形あるものであるのに対して、水は無限で形がなく、どんな方円の器にも従います。しかし、海と波の喩えの場合、海がなければ波は起こりえませんし、波が海の一つの現れであるのと同じで、水と氷は別々のものではなく、一体で、水を離れて氷はなく、氷は本質である水の一つの現象なのです。

 キリスト教圏の西欧思想では、現象と本質を二元論的に分けて考えがちですが、仏教思想では現象がそのまま本質であり、現象と本質は一体のものと考えます。「諸法実相」です。ですから、白隠禅師のいうとおり、「衆生本来仏なり・・・衆生の外に仏なし」です。咲く花、散る花には実体はなく、その現象そのものが空なのです。道元の言葉でいえば「空は一草なり」です。一草(現象)の外に空(本質)があるわけではありません。現象なしに空を論じても文字どおり空論です。

 「たった一輪のスミレのために、地球がまわり、風が吹き、雨が降る」。
ジョン・ミューア(アメリカに本部を置く自然保護団体の創設者)の言葉です。一輪のスミレの花が咲く背景には天地一切の働きがある、というのです。まさに縁起生・空です。

 蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」の句もこれと同じです。ミューアの言葉を知るまで、私はこの句をまったく誤解していました。たった十七文字の中に全宇宙が読み込まれている壮大な句だとは感じていましたが、ただ日が西に傾き、月が東の空に顔を出す夕暮れ時にあたり一面黄色の菜の花が咲いているという情景をそのまま句に詠んだものだとばかり思い込んでいました。まさかこれが空だとは思いも及びませんでした。愚かでした。

 このように、空は無であるからこそ、逆にあらゆる目に見える現象をそのものとしてあらしめているのです。これが空の本質です。私たちは、「何かがある」ということをあまりにも自明のことと考え過ぎています。春には花が咲き、夏にはホトトギスが鳴き、秋には月が冴えわたり、冬には雪が降ります。あたりまえのことですが、思えば不思議なことです。そこに空が登場するゆえんがあるのです。

 でも、私たちは、縁起=空そのものとして生きていますので、海のなかに生れて水の中に住んでいる魚が、水の存在に気づかないように、ふだん縁起=空に気づくことがありません。空は目には見えません。『星の王子さま』のサン=テグジュペリがいうように「大切なものは、目に見えない」のです。研ぎ澄まされた心の目でしか見えません。よく視野が狭いことを「木を見て森を見ず」といいます。逆は「森を見て木を見ず」です。でも、大切なことは、「木を見て森を見、森を見て木を見る」ことです。空論では、一草に空を見ること、そのことによって一草のいのちの輝きを深く豊かに感じる心の目が求められるのです。