私はテレサ・テンの大ファンで、とくに「時の流れに身をまかせ」を聴くと身震いするほど感動していたものです。有名な曲ですので、歌詞はご存じでしょう。
もしも あなたと逢えずにいたら
わたしは何を してたでしょうか
平凡だけど 誰かを愛し
普通の暮らし してたでしょうか
時の流れに 身をまかせ
あなたの色に 染められ
一度の人生それさえ
捨てることもかまわない
だから お願い そばに置いてね
いまは あなたしか 愛せない
(荒木とよひさ作詞)
若い頃は、この歌を単なる恋歌とばかり誤解していました。でも今は違います。考えてもみてください。現に逢っている「あなた」が、今はいくらこの世でただ一人の素敵な人とのぼせ上がったとしても、それが人間だとしたら、やがて熱が冷め「誰かを愛し」の誰かと同じになって平凡な普通の暮らしをすることになります。でも、あなたと逢って生き方が根本的に変わってしまったと歌っているのです。ですから、この「あなた」は普通の人間のことではないのです。この歌詞の「あなた」を「サムシング・グレート」もしくは直裁に「仏」に置き換えてもう一度読み返してみてください。すると仏への切なる帰依の歌だということがわかります。親鸞だったら、あなたは「阿弥陀如来」でしょうか。道元なら「釈迦牟尼仏」でしょう。
「もしも〈仏〉に逢えずにいたら」わたしは何をしてたでしょう。平凡な普通の暮らしとは、凡夫の迷いの現世を生きるということです。そして次のフレーズの「時の流れに身をまかせ」る時とは、道元の言葉で言えば「仏の時節」のことです。仏と出逢えて一切をお任せしたら、当然のことながら、仏道の色に染まります。もしそうなれるのであれば「、一度の人生を捨てる」、つまり出家してもかまわない、と歌い切ります。仏の側にいてその救いの手に抱かれ、絶対的な安心を得たいのです。
最後の「いまはあなたしか愛せない」というフレーズは、ちょっと問題です。今日は阿弥陀如来にしか帰依できないけれども、明日になったら釈迦牟尼仏になるかも、という意味でしょうか。淺読みすると、そう解釈されます。同じ仏だからそれでもかまわないかもしれませんが、そういうことを言っているのでは決してありません。仏教では、人が生きているのは、現在只今、この一瞬だけだ、つまり「、而今」と説きます。この一瞬一瞬の今が、生きている限り、無限にごろごろところがるように続くのです。ここでいう〈今〉とは「、永遠の今」のことです。ということは、「今、あなたを愛している」という状態が、生涯にわたって続くということです。ですから、この最後のフレーズは、命のある限り、あなたに帰依しつづけるという熱烈な信仰への表明なのです。仏教的に深読みすると、そういうことになります。
この歌がなぜこれほどまで私の心に響いたのか、こう解釈すれば身にしみ通るように腑に落ちます。そしてこれはそのまま今の私の願いでもあります。
しかし、この詩にちょっと不満なのは、仏をまるで自分の外にいるかのように、「あなた」と呼びかけているところです。何度も繰り返し述べていますように、仏は真の自己のことであって、自分自身のこと、あるいは自分に本来備わっている本性なのです。ですから「あなた」とは自分自身の中にいる「あなた」への呼びかけです。「此の身即ち仏なり」です。ですから、廻向返照して、自分自身の無意識の心の奥底を見つめてみると、
なにごとのおわしますかは知らねども
かたじけなさに涙こぼるる
という心情になるのです。一切は自分の心の中のできごとです。