イソップ童話の一つに『うさぎとかめ』の話があります。この話は、日本でも江戸初期の伊曽保物語以来、「努力にまさる才能なし」といういたって教訓的な話として長年語り継がれてきました。お馴染みの「もしもしかめよかめさんよ」という童謡の歌詞は、ほぼイソップ童話の内容に沿っています。誰かから聞いた話ですが、その中で善玉として描かれているはずのかめの行為にも批判される点があるのだそうです。かめはグッスリ寝込んでいるうさぎのそばを通り過ぎるとき、なんで一声かけてやらなかったのか、アンフェアではないか、というのです。きっとかめは勝ちたい一心で、心にゆとりがなかったのでしょうか。実はそうではなかったのです。
では、歌詞に沿って独断的ですが、新解釈を試みてみましょう。
もしもし かめよ かめさんよ/せかいのうちで おまえほど/あゆみののろい ものはない/どうして そんなに のろいのか
と、うさぎがかめをからかいます。怒ったかめは、無謀にも一〇〇%負け戦のかけっこを提案します。
なんと おっしゃる うさぎさん/そんなら おまえと かけくらべ/むこうの おやまの ふもとまで/どちらが さきに かけつくか
でも、真珠湾攻撃の日本軍とは違って、かめには十分勝算があったのです。
フランスに「ゆっくり行くものは、遠くへ行く」という諺があります。そうなんです。かめは長距離競走に長(た)けたマラソン・ランナーだったのです。ちょっと目ではマラソンランナーの走りはあのくらいのスピードなら自分でも走れると思い違いするほどゆっくりしています。でも、そのスピードを四十数キロも維持できるでしょうか。足がのろいカメは、実は一見、頭の巡りが遅いように見える、愚者の喩えでもあります。賢治の「雨ニモマケズ」の話を思い出してください。「大智は愚の如し」です。カメは自分をよく心得ていました。それに対して、うさぎは才気走った短距離選手だったのです。頭の回転は速く、さかしらなはからいはできるのですが、残念ながら肝心の己についてはまったく無知でした。そのことをかめはちゃんとわかっていたのです。ですから、「むこうのおやまのふもとまで」と提案したのです。「むこうのおやまのふもとまで」いったい何キロあるでしょう。一、二キロじゃききません。遠距離なのです。
うさぎは、己のことも相手のことも何も知らないまま、うかつにもこのかめの魂胆に乗ってしまいます。もしうさぎが自分を知り、この魂胆を見抜いていたとしたら、「むこうのおやまのふもとまで/とはそりゃあんまりな/ほらすぐそこのポストまで」とゴールの逆提案をしたはずです。
うさぎは小才はききますが、あまりにも愚か過ぎました。案の定、レースが始まると、うさぎは文字通り脱兎の如く駆け出します。全力疾走したあまり、一キロも行き着かないうちに疲労困憊してばったりと倒れてしまったのです。三番の歌詞は、
どんなに かめが いそいでも/どうせ ばんまでかかるだろ/ここらで ちょいと一ねむり/グーグーグーグ グーグーグー
となっていますが、実はそんな悠長な話ではなかったのです。うさぎは慢心し、油断して居眠りしていたわけではありません。ですから、たとえかめがそばを通り過ぎるとき一声かけたとしても、うさぎはすでにもう立ち上がる気力さえ失っていたのです。最後の歌詞は次のようになっています。
これは ねすぎた しくじった/ピョンピョンピョン ピョンピョンピョンピョン/あんまり おそい うさぎさん/さっきの じまんは どうしたの
とかめは勝ち誇ります。うさぎが疲労から回復して、慌ててピョンピョン走り出しても、時すでに遅しでした。これが真実なのです。「うさぎとかめ」の童話は、「努力にまさる才能なし」という一般に世間で知られている教訓的な話ではなく、本当は、孫子の兵法、つまり、事をなすにあたって、己と相手を知ることの大切さを子どもにわかりやすく説いた話だったのです。
孫子の謀攻篇に曰く、「彼を知りて己を知らば、百戦してあやうからず、彼を知らずして己を知らば、一たび勝ち一たび負く、彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず敗る」と。かめは「彼を知り己を知って」いたのに対して、うさぎは「彼を知らず己を知らなかった」のです。かめが勝ちうさぎが負けるのは必然だったのです。
うさぎは、かけくらべに負けることによってはじめて己を知ることができました。己を知るためには、何かを誰かと一緒にやってみる必要があります。その行為をつうじて相手と自分との間に一つの関係ができ、お互いに己を知ると同時に相手を知ることになるのです。
道元の有名な言葉に「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」。「現成公案」の巻の一節です。ここで言われていることは、仏道修行とは、自己の真相を見極めることだということです。自己を忘れて、すべての存在によってかくあらしめられている自己とは?
道元は詩に詠っています。
春は花
夏ほととぎす
秋は月
冬雪冴えて涼しかりけり
これは、四季の移り変わりの自然の美をあるがままに受け入れて素直に愛でた道元の悟りの境地をあらわしたものといわれていますが、実は、この詩は「本来の面目(真の自己)」と題されたもので、この大自然の在り様(よう)そのものが他ならぬ自己だと詠っているのです。宇宙と一つである自己をならうのが仏道だというのです。
道元は「みずからをしらん事をもとむるは、いけるものの免れられない心なり」とも言っています。頼住光子の訳によれば、「自分を知ろうとするのは、生きとし生けるものの免れられない心のはたらきである」ということです。
デルポイのアポロンの神殿の入口に刻まれた古代ギリシアの格言「汝自身を知れ」にはいろいろの解釈があるようですが、自分を知り相手を知ることは何事によらず人生において大切なことです。
またまた風呂敷を広げ過ぎました。私の悪いくせです。
ところで、うさぎとかめの話の真相、ご存じでした?ご存じのはずないですよね。私が勝手に創作した本邦初公開の作り話なのですから。