それにしても目に余る。本書執筆中の令和4年12月だけでも三件(静岡、富山、鹿児島)、新聞やテレビで報道されていた。保育園の保育士による園児虐待である。私が住む鹿児島市の場合、「言うことを聞かなかった」からお仕置きとして倉庫に閉じ込めたという事件である。この保育士は2歳の園児に「どんな言うことを聞かせよう」としたのであろうか。せいぜい、「はやくご飯を食べなさい」とか「席に座りなさい」とかぐらいで、たいした「言うこと」ではない。少なくとも腹を立てて叱るようなことではない。保育士は自分の思いどおりにしたかったのであろうが、園児には園児なりの思いと都合があるのであるから、保育士の思いのままになるはずがない。それに苛立ったのである。それは実は、園児にではなく、自分自身に対しての苛立ちなのである。家庭不和か同僚とのいざこざか何かわからないが、その時、保育士の心の居所が悪かったのであろう。そのことに保育士は気づいていない。
今自分が苛立ちはじめていることに気づけば、心はおだやかに平静となる。気づかないままそれに巻き込まれていると、怒りとなって爆発する。ただ苛立っているのと苛立ちに気づくこととは、認知のレベルが違う。気づくことは認知のメタレベルに立つことである。その気づきを錬磨する技法が、東洋で古来より実践されてきた瞑想法である。
以前、よく保育士研修会の講師に招かれていた。ある研修会で、「あなたは誰ですか?」と同じ質問を20回問いつづける心理学の「Who am I Test」(この時は10回)と私が考案した「あなたにとって一番大切な人は誰ですか?次に大切な人は誰ですか?」と次々に10回問いつづける「Important Person Test」を組み合わせて実施したことがあった。参加者は100人程度であった。「Who am I Test」の前半の10回の答えはほぼパターン化されていて、自分の名前や住所、出身地や出身校、家族のこと、自分の生い立ちや性格、趣味、将来の希望等、それに必ず自分の身分が書かれる。この研修会でも全員が「私は保育士です」と答えていた。「Important Person Test」も本来であれば20回問いたいところであるが、組み合わせると長くなりすぎるので10回に留めることにしている。面白いのは、既婚者の場合、夫は最初の方で「妻」と書くことが多いのに比して、妻は子どもから書き始めて自分の両親やきょうだい、友人と進んで、「夫」は後回しにされる傾向があることである。なかには10
人の中に出てこないこともある。これは悲劇である。夫はこのことをよく弁(わきま)えておく必要がある。
話が横道にそれたが、この研修会で驚いたことに、「Who am I Test」では全員が「私は保育士です」と答えたにもかかわらず、「Important Person Test」で「それは園児です」と答えた人が誰一人としていなかったことである。保育士研修会においてである。100人の保育士は園児のことなどまったく気にしていない。園児あっての保育士だということに気づいていない。ただ気づいていないだけではない。「気づいていない」ことに気づいていないのである。言われるとはっと気づくから、まったく気づいていないのでもない。この「気づいていることに気づいていない」ことに気づくことが気づきの本質である。
ここでは、もっとも最近のニュースとして印象深かった保育園を取り上げたが、むろん保育園のみに限らず、障害者施設の支援員、高齢者施設の介護職、訪問介護士等による利用者虐待の報道は後を断たない。必ずしも特殊な一部の事業所にすぎないとは言い切れず、私が30年近く理事長を務めていた“きずな”においてもその危険性は十分にありうる。他山の石としなければ。
虐待や差別によって人を傷つけることは自分を卑しめることである。自分を卑しめることは自分の人生を台無しにしてしまうことである。職業生活は人生の中核をなす。仕事が人生に意味と価値を与えるのである。ところが、自分が今やっている大切な仕事に心がきちんと居合わせないままボーッとマインドレスに働いていると、意味や価値を与えるどころか、仕事に重大な支障をきたし、事故を起こす危険性がある。日常生じる様々な問題の大半は「気づかなかった」ことから起こる。福祉では危機管理として「ひやりはっと」を重視するが、「ひやりともはっととも」しない。これは怖い。気づかない限り、いつまでも変わることなく同じ無自覚な行為がくり返される。そこで、もし変化が必要なのであれば、現に今この一瞬に体験している行為に意識を向けて、自覚的に気づくことである。
これが本書のテーマである釈迦のサティであり、カバットジンのマインドフルネスなのである。いやしくも、福祉職を自らの職業として選択したからには、絶えず自分自身を知るための自己研鑽に努めることが専門職に従事する者としての矜持ではないかと思う。