「死んで仏に成るよりは、仏に成って死んで逝きたい」。
人は、いつ死ぬかは分かりませんが、いつかは必ず死にます。善行を積んだ人も悪行を重ねた人も、死んで四十九日たつと誰でもみんな仏に成れるのだそうです。私はもういつ逝ってもおかしくない歳ですから、放っておいても間もなく仏に成れるのかもしれません。でも、なんとしても今生(こんじょう)のうちに成ってみたいのです。なぜなら、仏陀(ブッダ)とは悟りに達した人のことですから、死んだら悟ることはできませんし、仏に成ることも叶わない、と思うからです。「人は何のために生きるのか?」と人なら誰もが思い悩み、自問するものです。私は「それは、仏になるためだ」と単刀直入に自答しています。その仏とは、空を体得し、それを日常生活で実践できる人、いわば「ゼロを深く豊かに」生きることのできる人のことだと理解しています。
『仏の発見』という対談本の中で、梅原猛が「仏教 とは要するに『仏になる』ことなんやな。『葉隠』では『武士道とは死ぬことと見つけたり』といいますけど、私は、『仏教とは仏になることと見つけたり』と 言いたい」と話したのを受けて、五木寛之は、「なるほど。仏になる、ですか。宗教学者の鎌田東二さんは『神は在るもの、仏は成るもの』と言っています。・・・ 今様歌でも、『仏も昔は人なりき』という歌い出しではじまるものがあります」と『梁塵秘抄(りょうじん ひ しょう)』の中の法文歌(ほうもんのうた)を紹介しています。
仏も昔は人なりき
我らも終には仏なり
三身仏性具せる身を
知らざりけるこそ あわれなれ
二千数百年前、釈迦が六年間の難行苦行の末、インドのブッダガヤで、川のほとりの菩提樹の下で静かに坐禅をしている時、明けの明星を見て豁然と悟ったと、今に語り継がれています。その時の第一声が、
奇なる哉、奇なる哉、一切衆生悉く皆、如来の智慧徳相を具有す。但だ妄想執着あるを以ての故に証得せず
(不思議なことだ、不思議なことだ、生きとし生けるものすべては仏の智慧と慈悲を具えていたとは。すべては仏の心をもち、悟りを開いておったではないか。しかし、現実にはそうでないのは何故であるかというと、種々妄想してその妄想に執着し、迷ってしまうからである。迷いの雲に仏の心をおおってしまうからであり、それゆえに仏心というものが外に現われてこないだけのことだ。)
(河野太通『白隠禅師坐禅和讃を読む』より)
だった、と伝えられています。
天台本覚思想では「一切衆生悉有仏性」(この世のすべての迷える生きとし生けるものには悉く仏性が宿っている)と説かれていますし、白隠禅師の『坐禅和讃』の冒頭は「衆生本来仏なり」で始まり、最後の句は「此の身即ち仏なり」で締められています。仏典ではこう言った例は枚挙に暇(いとま)がありません。これが、大乗仏教の根本思想なのです。
でも、だからといって、不遜にも私が「私は仏だ」と言ったとしたら、たちどころに精神病院送りになります。これに関連した笑い話を一つ。
精神病院である患者が「私は今朝、神のお告げを聞いた」というつぶやきを聞いた隣りの患者が「私はそんなことは言っていない」。
宗教で大切なことは、科学的根拠があろうがなかろうが、宗教的真理をただ信じることです。私は釈迦を信じています。
釈迦は「人はみんな仏だ」と説いています。(大前提)
私はみんなのうちの一人です。(小前提)
ゆえに、「私は仏だ」。(結論)
と言っても、病院へは放り込まないでください。極めて論理的な三段論法です。否定のしようがありません。
もとより、いい歳こいていまだ枯れ切っていない罪業深重の私ごときが、仏になんぞ成れるわけがないことぐらい重々承知しています。ではありますが、この叶わぬ夢が、私の人生最後の切なる願い、発菩提心(求道の心を起こすこと)なのです。