人生ご破算で願いましては

第四章 同じ事の繰り返し

 第二章の一で良寛の「つきてみよ・・・」の句を紹介しました。毬つきで一から十まで数えてまた一に戻ってこれを何度も繰り返すことを詠ったあの句です。この句の冒頭は、まず「つきてみよ」と行為から詠い出されています。そこに、私はとくに惹きつけられるのです。なぜなら、現役時代専門にしていたオートポイエーシス理論の「行為存在論」を思い出させるからです。

 河本英夫の提唱する行為存在論では、「行為することによって、みずから存在する、と同時に意図せず別の何かが形成される」ことを説きます。遍路行の一歩一歩が感謝の気持ちを呼び起こし、ただ坐って息を整えるだけで心が澄む場合のように、ある行為を行うことが、意図せず別の効果を生む現象を「行為の二重作動」といいます。この「行為の二重作動」は、歩行や呼吸、読経や写経等、同じ単純な動作を繰り返し反復していると、おのずから必らず起こる現象です。仏教の修行で実践される坐禅や念仏などは、単純な動作を徹底的に反復するところに共通点があります。

 毬つき良寛の場合もそうでした。毬つきはただ毬をつくだけの行為です。ところが、それを、ひふみよいむなや・・・と、何度も何度も我を忘れてつきつづけている行為のうちに、毬つき良寛がみずから現成し、その行為そのものがおのずから仏道修行になっているのです。そうなろうと意図せずとも、ひたすら同じ事を繰り返す行為によって、みずから存在し、別の何かが変わるのです。

 道元は『普勧坐禅儀』の一節で坐禅の要諦として「作仏(さぶつ)を図ること莫(なか)れ」と言っています。悟りをひらいて仏になろうなんて邪(よこしま)な考えで坐ってはならない、と戒めているのです。ただ坐りつづけること、それが悟りの姿である、つまり修証一等だというのです。修行と悟りの関係について面白い例え話があります。道元の「古鏡」の巻きの終わりに語られている「磨塼(ません)の故事(塼(かわら)を磨いて鏡とする話)」です。