人生ご破算で願いましては

第四章 同じ事の繰り返し

一、磨塼(ません)の故事

 江西の馬祖道一が南嶽懐譲のもとで修行していたときの師と弟子のやりとりです。坐禅に励んでいる馬祖に南嶽が問いかけます。

 以下、中野孝次の『道元断章』からの引用です。

 

南嶽「お前は近日(ちかごろ)何をしているか」
馬祖「近日わたしは只管打坐するのみです」
南嶽「坐禅して何をしようとしている」
馬祖「坐禅して作仏を志しています」
すると南嶽は一片の塼(せん)(瓦)を持ってきて、馬祖の庵のそばの石にあてて磨き始めた。
馬祖「和尚、何をしておいでです」
南嶽「塼を磨いておる」
馬祖「塼を磨いて何をなさろうというんです」
南嶽「磨いて鏡にする」
馬祖「塼を磨いて、どうして鏡とすることができましょうや」
南嶽「坐禅して、どうして作仏することができようや」

 

 瓦を磨いて鏡にすることができないのなら、どうして坐禅して仏になることができようか、と問い返す南嶽の真意は、瓦を一心に磨く行為そのものが鏡となる道であると同様、坐禅それ自体が仏の姿なのである、と教えることにあります。坐禅即ち悟りなのです。南嶽のこの教えは、坐禅そのものをやめさせようとしたのでは決してなく、馬祖が坐禅によって仏になろうとした過ちを戒めたのです。ですから、道元は「古鏡」の説法を終えるにあたって、「一心に瓦を磨きなさい。きっと鏡になるから。そうでなければ、人が仏になれるはずもない」と説いています。

 坂村真民にもまったく同じ趣旨の「鈍刀(どんとう)を磨く」という詩があります。

 

鈍刀をいくら磨いても
無駄なことだというが
何もそんなことばに
耳を借す必要はない
せっせと磨くのだ
刀は光らないかも知れないが
磨く本人が変わってくる
つまり刀がすまぬすまぬと言いながら
磨く本人を
光るものにしてくれるのだ
そこが甚深微妙(じんじんみみょう)の世界だ
だからせっせと磨くのだ

 

 瓦を磨くことでも鈍刀を磨くことでも、他の何でもいいのですが、ある一つの行為をとことんやり抜いていると、いつの間にか意図せずに別の何かが変わるものです。これが河本英夫の行為存在論でいう「行為の二重作動」のことなのです。