人生ご破算で願いましては

序説 発菩提心

二、私は居士(在家修行者)

 私の恩師、故秋重義治教授は、著名な道元禅の心理学の専門家で、この道の第一人者でした。山折哲雄の『坐の文化論―日本人はなぜ坐りつつけてきたのか』で教授の研究成果が紹介されていますし、水野弥穂子の『道元禅師  宝慶記』には必読の論文とまで評価されているのです。その一方で、曹洞宗の高僧、瑩山(けいざん)禅師の『坐禅用心記』を精神医学の視点から解説した平井富雄博士からは、その著書『禅と精神医学』のなかでA博士と名指しでこっぴどく批判されています。このように著名人からの毀誉褒貶(きよほうへん)が激しいということは、恩師がひとかどの人物であったことのなによりの証(あかし)です。「門前の小僧習わぬ経を読む」で、私も学生の頃から道元に親しみ、よくはわからないまま関連本を渉猟していました。

托鉢中の鎌田厚志禅師の立ち姿

 今は、永平寺で厳しい修行を積まれた曹洞宗の僧侶・鎌田厚志禅師(真龍峰直指庵住職)に師事してささやかながら在家で仏道修行に励んでいます。師匠に初めて出会ったのは、鹿児島の繁華街にある山形屋デパートの角で托鉢されていたその立ち姿のあまりの美しさに見惚れたときからですから、もうかれこれ二十年近く前になります。

 この托鉢僧に不思議なえにしで師事することになったのです。師匠に導かれて在家得度し、永平寺の出張所である紹隆寺の参禅会にも参加するようになりました。そのご縁で若い修行僧のみなさんと一緒に托鉢にも連れて行っていただいております。家では毎日、朝夕仏間に坐って「調身・調息・調心」に努めています。姿勢を正し、呼吸を整えるところまでは、何とか自分の意志でコントロールできるのですが、心を落ち着かせるのは不可能で、無念無想どころか妄想が湧き起こり毎回乱心に悩まされています。坐禅が終わると、習い覚えたとおり、一息半趺の「経行(きんひん)」を行っています。腰から上は坐禅の時と同じ姿勢を保ち、腕を叉手(しゃしゅ)に組んで静かに呼吸しながら、動いているのかいないのかわからないほどゆっくりと歩くのです。参禅堂でみんなと一緒にやる分にはいいのですが、家でひとりでやっているのを端(はた)から見ると狂気の沙汰にしか見えないでしょう。

 毎日、「般若心経」や「観音経」などの読経を欠かしません。修行の三本柱の一つとして写経も金釘流でやっています。なにしろ、筆を手にするのは初めての経験ですので書なんてもんじゃありません。まったくの自己流です。この私が写経を始めたきっかけは、退官記念に教え子たちが写経道具一式を贈ってくれたからです。その一式の中に利根川秀佳の『ゼロから始める写経』という本が含まれていました。それに書かれていた「写経は、字の上手下手はあまり問題ではありません。美しい文字を目指そうというよりも、じっくりと一文字一文字に心を込めて書いてみてください。書いているうちに自然と筆に慣れていくでしょう。そして、きっと あなたが求めている境地にたどりつけますよ。・・・写経をすると自然に心が落ち着き、平穏な気持ちになれるのです。なぜか心は無になり、何も考えないすばらしい時間が持てます。そして書き終えると、心がきれいになっている・・・。ふしぎですね」という一文に目が止まったのです。

 そうか、書くことに一心になることが大切であって、字の上手下手は問題ではないのか、それなら私にもできるかもしれない、と思ったのが写経を始める動機でした。なにしろ根が「不器用ですが生真面目」なアスペ・タイプの私ですから、一つのことに集中してこつこつとやりつづけるのは性に合っているのです。

 「所謂写経は習字には非ず  唯是れ一筆一筆のみ」です。この言葉は、道元を少しかじった 人なら、すぐにあれをもじった言葉だとおわかりのはずです。そうです。『普勧坐禅儀』に出てくる「所謂坐禅は習禅には非ず  唯是れ安楽の法門なり  菩提を究尽するの修証なり」のもじりです。この「坐禅」を「写経」、「習禅」を「習字」に置き換えただけのことです。

 坐禅というものは悟りをひらくための修行として行うものではなく、ただ心が落ち着くから楽しんでやるものだということです。只管打坐です。なぜなら、修証一等といって、坐禅そのものが悟りの姿なのですから。そこには悟りをひらこうというはからいも意志もなく、うちなる仏によっておのずから坐らされているだけのことなのです。よく禅宗は自力の典型みたいにいわれますが、自力も他力もないのです。ただ坐ることだけを楽しめばいいのです。安楽の法門です。これが道元のいう坐禅の要諦でした。

 写経もこれとまったく同じです。習字は、字が上手になるために字の書き方を習うことです。でも、写経は習字とは違います。そういう手段のためにやるのではなく、ただひたすら経を写すだけのことです。写経についての前述の利根川秀佳の説明は、道元の坐禅の考え方とよく似ています。