人生ご破算で願いましては

第三章 歩行(ほぎょう)が人間を仏にする

二、人生は「旅だ」、いや「放浪」では?

 同じ映画ネタで恐縮です。降旗康男監督の「あなたへ」を見ました。高倉健主役というのが決定的な動機です。私は高倉健とイチローの熱狂的大ファンですので。二人ともどこか禅の修行僧といった雰囲気があります。

 高倉健は平成二十六年十一月十日に突然永眠しました。享年八十三歳。生涯の出演作はなんと二百五本でした。テレビの追悼番組に挿入されていた生前のインタビュー場面で、「人を想う心ほど美しいものはない」と語っていました。何の変哲もない平凡な言葉ですが、高倉健が語ったればこそ私たちの心を打つのです。長い人生経験からおのずと醸し出された深い心境の現われなのでしょう。「すべての言葉には、それを語った人がいる」と言います。同じ言葉でも、誰が語ったかでその重みには雲泥の差があります。

 若い頃の任侠道やアウトローの様式美を演じた格好いい高倉健にはまったく関心がありませんでした。「日本侠客伝」や「昭和残侠伝」、あるいは「網走番外地」シリーズなどは一本も見たことがありません。私が彼に強く惹かれるようになったのは、「幸福の黄色いハンカチ」を見て以降のことです。「居酒屋兆治」や「鉄道員(ぽっぽや)」、「ほたる」など、社会の片隅のどこにでもいそうな平凡な男の役柄をストイックに演じる寡黙な高倉健がたまらなく好きなのです。孤独に耐え、それでいて真っ直ぐ誠実に生きる男の矜持に共感を覚えるのです。

 「あなたへ」もそういった作品の一つです。残念ながら、彼の二百五本目の最後の遺作となりました。映画の脚本(青島武)を原案に森沢明夫が書いた同名の小説もあります。

 物語はごくシンプルです。妻(田中裕子)に先立たれた富山の刑務所の作業技官(高倉健)が、遺言に従って妻の故郷である平戸の薄香湾に散骨するため、富山から平戸まで自家製キャンピング・カーに寝泊まりしながらひとり旅をするロードムービーです。旅の途中でいろいろの人とめぐり会い、強い印象を残す短いスケッチが随所に挿入されています。思わず画面に引き込まれてしまいました。

 その一場面です。同じくキャンピング・カーで旅をしている自称元高校の国語教師、実は車上荒らし役のビートたけしと偶然出会い、夕暮れの琵琶湖湖畔で二人静かに語り合います。

 たけしは退職後妻に先立たれて、ひとりぼっちの風来坊だと自己紹介し、種田山頭火マニアらしく会話の端々に彼の句を口ずさみます。本では映画以上に彼の句が取り入れられています。「行き暮れてなんとここらの水のうまさは」は映画にも出てきますが、そのほか、「ひとりとなれば仰がるる空の青さかな」、「風鈴の鳴るさえ死のしのびよる」、あるいは「からむものがない蔓草(つるくさ)の枯れてゐる」など、二人の今置かれている状況にぴったりの句が列挙されています。風鈴の句は、健が車につるしておいた、亡くなった妻の風鈴が風で鳴ったのを聞いて思わず口から出たものですし、蔓草の句は、妻という絡む木がないと枯れてしまう蔓草に自分たちの存在を重ね合わせているのです。映画は、高倉健が一人歩くラストシーンに重なった「このみちやいくたりゆきしわれはけふゆく」の字幕で終わります。しょせん乞食坊主の愚かな旅人として一生流転せずにはいられない山頭火に託して、これからの老いの一人旅を一歩踏み出そうとする余韻を残して。

蔓草

 「山頭火は放浪の俳人なん言われているんですけどね、倉島さん(高倉健の役名)は、旅と放浪の違いって、何だと思いますか?」と、たけしが問いかけます。

 健が「・・・なんですか?」と聞き返すと、

 たけしが応えます。「私はね、目的があるかないか、だと思うんです。そういう意味では、芭蕉は旅で、山頭火は放浪ということになりますか。『分け入っても分け入っても青い山』。山頭火はこんなふうに己の思うままに放浪して、自然な想いを五七五にこだわらず詠んだんですよ。だからでしょうね、いまだに人びとを魅了するのは」。

 健「旅と放浪の定義おもしろいです。杉野さん(たけしの役名)は、旅派ですか?それとも放浪派ですか?」

 たけし「私は、放浪です。目的もないですし、そもそも帰る場所がないですから。自宅はありますけど、そこに帰っても木がないので・・・。蔓草は枯れるだけです」。

 二人が交わす会話はとても考えさせられます。たけしの定義によりますと、行く当てがあり、帰るところがあるのが旅で、行く当ても帰る当てもなくただあてどなく彷徨(さまよ)うのが放浪ということです。たけしは、自分のは放浪だと告白していますが、健のは、帰る場所はともかく、平戸で散骨するという行く目的がはっきりしていますから旅ということになるでしょう。山頭火は詠っています。

 

この旅果てもない旅のつくつくぼうし

 

 昔の人は、「人生は旅だ」とよく人生を旅に喩えていました。ということは、人生には行く当ても帰るところもある、ということでしょうか。痴呆高齢者の見当識障害の場合、彼らの「行く(往く)」先も「帰る(還る)」先も、その極限は、同じ絶対平穏の生まれる以前の世界と死後の世界ではないでしょうか。結局、人生の旅はそのような世界を目指しているのかもしれません。

 しかし、人生を旅に喩えるのは、行く先や帰る当ての話ではなく、その途中のことです。旅の道程では、道に迷ったり、盗人に襲われたり、何が起こるかわからず、一寸先は闇だということの喩えです。行きはあるが帰りはない人生の片道切符の旅は、思わぬことが起こるので気をつけろ、という諭しです。でも、昔の旅ならいざ知らず、現代の旅、殊に旅行社が企画したツァーは、行く場所から泊まる宿、出発到着の時刻まできちんと計画されており、想定外のことが起こる事はまずありません。すべては予定通りです。ところが、旅とは違って、人生は今でもままならぬもので、どこから来てどこへ行くのかさえわかりません。だからいいのです。すべてが予定通りだったら、こんなにつまらないことはありません。そこで、人生を喩えるなら、「旅」ではなく、「放浪」でしょう。でもいまだ「人生は放浪だ」という言い方は聞いたことがありません。これを地でいったのが「放浪の俳人」種田山頭火です。もっとも現代は山頭火の時代と違って、社会が世知辛くなって豊かなわりにはゆとりがなく、放浪行乞そのものが不可能な時代になっています。