人生ご破算で願いましては

第三章 歩行(ほぎょう)が人間を仏にする

四、人間は考える〈足〉である

 山頭火は、生涯行乞放浪の旅をつづけましたが、その最初と最後の二回、四国八十八カ所の遍路を行っています。「遍路は、自分自身を如実に知ることだ(如実知自身)」という空海の言葉を実践して、自分を究めたいという気持ちがあったのでしょう。私もつい最近、十数日かけて四国の八十八ヵ所を結願し、その足で高野山に詣でて満願してきました。遍路ですから歩かなければならないのですが、体力的にそれは叶わずタクシーを利用しました。

 ところが、かつてそれを歩き通した女優がいました。およそ四十年ほど前、NHKテレビで「聖路」という番組が放映されたことがありました。やがて六十歳の還暦を迎えようとする女優の左幸子が、人生の転機に四国霊場八十八カ所めぐりを思い立ち、約二ヵ月をかけて、千三百六十キロを歩くというドキュメントでした。ほとんどの人がバス・ツアーかレンタ・カー、あるいは私のようにタクシーで遍路行する時代に、「遍(あまね)し道(みち)」を徒歩で遍路することのばからしさ、あほらしさ。どうしようもなく、胸にわき起こるむなしい心と闘いながら、ただひたすら歩きつづけるのです。そのひたむきな姿に、感動を覚えなかった人はいなかったでしょう。

 特に印象的だったのは、「遍路ころがし」の急な山道をあえぎあえぎ登りきったら、なんとそこには立派な舗装道路があって、車がスイスイ走っているではありませんか。彼女は「あらあら」と言って道端にへたり込んでしまいました。現代の文明社会と人間の関係を見事に象徴していて、忘れられない場面でした。

 バス・ツアーであれ、レンタ・カーであれ、とにもかくにも四国まで出かける人はまだいい。その時、私などは、それをテレビで見て自分があたかも「お遍路さん」したかのようなつもりになっているのです。最近、外国旅行やそこの土地の人の生活ぶりをドキュメントするテレビ番組が毎日のように放映されています。世はまさに代理体験時代です。

 解説つきで、提供される画一的なテレビの情報に塩漬けされているうちに、いつの間にか頭はコチコチの「脳硬化症」に冒されています。頭だけが肥大化して、体の知恵がそれに追いつかないのです。歩いて出かけてみれば、そこで何かと出会い、何かに気づき、何かを感じます。そして、それが未知のものに対する新しい好奇心を生み育ててくれるのです。

 それなのに、座して頭だけで考える習性が身についてしまうと、できごとの微妙なゆらぎやあいまいさ、神秘性といった創造性の大切な酵母に対する許容度が狭くなって、何でもすぐに、イエスかノーかで割り切ろうとする傾向が強まります。既知の答えのある問題には関心を示しますが、人生の謎のような不可解な問題からは目をそむけるか、ごく安直な答えで満足します。早々に人生を達観して、訳知り顔に老成しているいい若い者がいるものです。

 また、何ごとによらず、ものごとの成り行きにはじっくりと熟成する間(ま)が必要です。ところが、インスタント文化時代を気忙しく生きている私たちは、みんな「間抜け症候群」にかかっていて、その間を待つ心のゆとりがありません。インターネットであらゆる情報があっという間に手にはいるのですから、世はまさにコピペの時代です。

第八十八番大窪寺

 「人生は芸術である」―これはウルフの言葉です。人は誰でも重い荷物を背負いながら、人生という自分の芸術作品を日々創造しています。その作品には、その人ならではの独自の個性が反映されていますし、その人の全人格の成長・発展と深く呼応しあっています。それがたとえ、どんなに平凡で、つまらないもののように見えても、この世で、唯一無二の存在であり、その価値は、どんな偉大な芸術家の作品にも決して劣るものではありません。マスローの言葉を借りれば、一流のスープは二流の絵画よりも創造的なのです。

 自己を見つめ直すために、四国の遍路行を実践した左幸子が、旅路の果てに発見したものはいったい何だったでしょうか。最後の八十八番札所の大窪寺にたどり着いたときに、目に涙をにじませながら、ぽつりと語った一言に、彼女の万感の心が凝縮されていました。それは「ただただありがたい」という感謝の気持ちでした。その言葉は、生の喜びを精いっぱい表現したものだったかもしれません。バス・ツアーで、一汗もかかずにめぐりおおせた人たちには、このような本物の深い情感は、決して味わうべくもなかったでしょう。恥ずかしながら、私がまったくそうでした。

 私たちの人生は、いわば新幹線の超特急に乗って、瞬く間に通過しているようなものです。これでは終着駅に着いて、人生の舞台を降りるとき、むなしさに後悔のほぞをかむことになるのではないでしょうか。「人生の歩みの一歩一歩はすべて人生の歩みである」という言葉があります。小さな一歩一歩がその人の人生の歩みなのです。いくら文明が発達したところで、しょせん人間は、自分の人生は自分の足で歩くしかありません。遍路行は一歩一歩ただ歩くだけのことです。それが意図せずに左幸子の胸に感謝の気持ちを醸し出したのです。パスカルとは別の誰かが言っていました。「人間は考える〈足〉である」と。