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第三章 歩行(ほぎょう)が人間を仏にする

五、歩行(ほこう)は歩行(ほぎょう)

 歩行とは歩いて行くという単なる動作を表現した言葉に過ぎません。しかし、行を「ぎょう」と読むならば、意味がまったく異なります。歩行(ほぎょう)は、歩くことを行とすることです。「歩行(ほこう)は歩行(ほぎょう)」というのはこういうことです。

 「労働がサルを人間にした」。ドイツの社会思想家、フリードリヒ・エンゲルスの言葉です。これに倣えば、「歩行(ほこう)がサルを人間にし、歩行(ほぎょう)が人間を仏にする」といえるでしょう。

 歩行(ほぎょう)の現代の達人は、天台宗の僧侶・酒井雄哉大阿闇梨(平成二十五年九月に他界)でしょう。なにしろ、比叡山延暦寺であの難行中の難行といわれる千日回峯行を二度もつづけて満行され、その後も、国の内外を天狗のように歩き回られていたのですから。千日回峯行では、最長一日に八十四キロ,七年間で合計一千日を回峯し、その距離はなんと地球を一周する約四万キロを歩きつづけるのです。七百日目の回峯後に不動堂に籠り九日間、不眠・不臥・断食・断水で十万遍の不動真言を唱えるという想像を絶する荒行の「堂入り」があります。これをやり遂げないと次の回峯行に進めません。普通の人間はこんな難行苦行にとうてい耐えられるものではありませんが、それを二度も満行なさったとは。

 実際、体験もしないでこういうことを軽々に言うのも恥ずかしいのですが、本書の文脈からすると、この千日回峯行は、直立二足歩行をはじめたばかりの人類の原初的生活を儀式化して再体験するものではないか、と勝手に想像しています。「GATE」でも述べましたように、食物を求めて一日中野山を歩き回り、しかもそれが生きている限り生涯つづくのです。千日回峯行の「堂入り」も同じで、飲まず食わず眠らずは、原始人の日常そのものであったに違いありません。今みたいに蛇口をひねっただけで水が飲めたり、コンビニに行けば食べ物はなんでもすぐ手に入るという状況は想像だにできなかった時代です。いつ野獣に襲われるかわかりませんので、夜も洞窟の中で安眠というわけにはいきません。その時、火が野獣から身を守るのに役立ったことは前にも述べたとおりです。

 酒井大阿闇梨は、自分を草鞋に譬えて次のように述べています。

 

「一日一生だよなぁ」と思って草鞋を見ているうちに、草鞋も僕も同じだよなあと思ったんだな。僕も草鞋も同じで、一日中歩き回ったから、体がズタズタになっちゃって、青息吐息になっている。草鞋だって、家に着いた途端に、「あー、家に着いたー」と思って、「明日はもう、これじゃ行かれないから、次の自分で行かなきゃしょうがないな」と思って、新しい草鞋と取り替えられる。
やっぱり、一日が一生じゃないかなぁ。「今日の自分は、今日でおしまい」。草鞋も、それと同時に消滅しちゃうんだし、新しい草鞋にすると、自分も新しい感覚で出かけて行ける。人生は、そういうことの延長線だよなあ。

 

 とても、含蓄に富む言葉です。千日回峯行を二度も満行し生涯歩くことを行とした方の言葉と思えばなおさらです。

 千日回峰行といえば、千本桜で有名な奈良の吉野山にある金峯山寺(きんぷせんじ)(山岳修験道の寺)で修行なさった塩沼亮潤大阿闍梨も満行されています。むろん、四無行も実践されました。吉野の四無行は、比叡山延暦寺の千日回峰行の「堂入り」に相当するものです。

 氏が、たったひとり大自然のなかを毎日歩き続けて体得されたものは何だったのでしょうか。霊感や超能力が備わったのでしょうか。そんなもの備わるはずがありません。そんなものを身につけようとか、「何かのため」ということでは、そもそも行になりません。氏が悟られたのも、ただ「謙虚と素直」、そして人に対する「優しさ」が大事ということだったそうです。氏は述べています。

 

「悟」りという字は「吾」の「心」と書くように、本当の自分自身の心と出会うことができるのです。山での体験をもとに、人生の歩き方に置き換えて、みなさんに幸せになってほしいという心なのです。その秘訣は謙虚と素直です。謙虚で素直であるということは本当に難しいけれども、それが私が一番大切にしている人生の歩き方の極意です。

 

 本来、修験道の行が目指していることは、山中でひとり、自己を徹底的に見つめ、あらゆる執着を捨て、あるべきように、あるがままに生きること、そして穏やかな境地を己の心に宿すことです。その真理の道が、優しい心、素直な心、謙虚な心なのだそうです。