金で困られている方、間違っても私のところには来ないでください。私も金には困っていますから。本書は、福祉の本でも経済の本でもありません。まったく専門的ではありませんが、れっきとした仏教の本のつもりです。
今の若い方はご存じないでしょうが、昔、無責任男といわれた男クレイジー・キャッツの植木等の歌に
金のない奴は俺んとこへ来い
俺もないけど心配すんな
見ろよ 青い空 白い雲
そのうちなんとかなるだろう
(青島幸男作詞)
という歌詞の歌がありました。この歌詞の内容は仏教の教えそのものです。
それもそのはず、植木等はお寺生まれのお寺育ちだったのです。無責任男を演じていた頃、住職をしている父親にさぞかしこっぴどく叱られるだろうと覚悟して実家の寺に里帰りしたら、案に相違して父親からお前はえらいと誉められた、というエピソードをどこかで聞いたことがあります。本人にその自覚があったかどうか知りませんが、たくまずして植木等はふざけながら説法をしていたのです。
まず、「金のない奴は俺んとこへ来い」について解釈してみます。
明日食べる「金がない」ということは、悩みの大きな原因の一つです。ここでは、「金がない」という言葉で人間の苦悩を代表させているのです。ですから、「金がない奴」というのは、苦しみ悩んでいる煩悩深重(ぼんのうじんじゅう)の凡夫のことです。
悩み苦しんでいる者は、「俺んとこへ来い」と歌っているのです。この俺とはいったい誰のことでしょうか?端的に言ってそれは仏様のことです。仏様が「そんなに苦しいのなら私のところへお出でなさい」と呼びかけているのです。しかし、現実には仏様の代理者としてのお坊様でしょう。宗派を問わず、お坊様はみんな信者の悩みを救済することを生業としているはずです。宗教ではありませんが、私たち心理臨床家も同じように相談に訪れるクライエントの悩みの解決をお手伝いしています。
次の句は、「俺もないけど心配すんな」です。
道元が厳しく戒めているように、お坊様は自分の食い扶持以上に金をもってはならないのです。良寛のように、すべからく清貧を旨とし、無一物であるべきなのです。
「俺もないけど」にはもうひとつ別の意味が考えられます。いくら悟りを開いた立派なお坊様といえども、この世に生きているかぎり、私たちと同じように多くの煩悩を抱えています。「金のない奴」と同じなのです。同じ人間同士というところが重要なのです。親鸞のいう「同行」者です。
「心配すんな」というのは仏様の声です。その代理者であるお坊様が、「心配しなくても大丈夫だよ」と声を掛けているのです。もしそれが本当に自分の信じる仏様やお坊様だったとしたら、「金のない奴」もどんなにか心安らかに安心しておれることでしょう。ただし、ここで重要な条件があります。そのお坊様が尊敬でき信頼されている立派な人格者、つまり仏様のような人であることが前提なのです。お坊様なら誰でもよいという訳ではありません。
人は誰でも一人で孤独に生きることはできません。誰かと「共にあること(being with)」を求めてやまないのです。その誰かとはふつうは家族などの重要な他者のことですが、宗教から見るならば、究極的には仏様ということになります。仏様と一緒ということを感じることができるならば、これはもう、たとえ明日食べる金がなくても「絶対安心」です。
「心配すんな」と並んでこの歌詞の決め手は次の「見ろよ青い空白い雲」です。これは『般若心経』の冒頭の部分、つまり、「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄」を歌ったものなのです。青い空(そら)とは文字どおり「空(くう)」のことですし、白い雲は現実の個々の現象、つまり形ある「色」の具体例です。般若心経の有名な「色即是空空即是色」の空と色のことです。「見ろよ青い空白い雲」とは、空と色の真実の関係をよく観じなさい、ということです。
雲一つない青く澄み切った空は、何の区別も限界もなく、無辺無量です。その空(そら)に含まれる水蒸気がある一定の条件(縁)のもとで水滴や氷の粒の集まりになります。それが雲です。地上から見える雲は、入道雲や鰯雲、まっ黒な雨雲、夕映えの茜雲(あかねくも)などさまざまな姿形を取り、絶えず千変万化しながら生滅を繰り返しています。でも、空(そら)には何の変化もありません。般若心経ではこのことを、「是諸法空相」、つまり空という相からみれば、「不生不滅不増不減」というのです。空(そら)はまさに空(くう)の象徴なのです。
今は、金に困って黒い雨雲に心が覆われた気分かもしれませんが、「ご覧なさい、空を。雲もあなたの悩みもこの世のすべては空なんですよ」。そう気づいたら、金にこだわることもなく、金は天下の回りもの、「そのうちなんとかなるだろう」と気が楽になるでしょう。
これが最後の締めの句です。物事は、すべからく浅はかな人のはからいを越えて、縁によって、
在るものは在るべくして在り
起こることは起こるべくして起こり
成ることは成るべくして成る
ものです。「人生、一○○%運と縁です」。運とは時の巡り合わせのこと、縁とはその時置かれた状況とか条件、関係のことです。「一○○%」と言うと、せめて五○%にして後の五○%ぐらいは人間の意志にしてください、という人がいます。でも、考えてみてください。何億という大脳の神経細胞がその時ぐるぐるっと働いてぱっとまとまって「こうしよう」と決断するんですよ。スロットマシンのゾロ目みたいなものです。0から九までの三桁の数字が勝手にぐるぐる回転して、ぴたっと止まったときに、七七七とか九九九とかの数字が並びます。よほど幸運でなければ、めったにこんなきれいな数の並びにはなりません。とにかくスロットマシンが止まるということが意志決定の喩えで、自分の意識や意志ではコントロール不能です。意志や迷いすらも「一〇〇%運と縁」なのです。
どうにもならなくて困り果てたとき、悪あがきはやめて、今置かれた状況にじっと身をゆだねていると、そのうちなんとかなるものです。
以上が、この歌についての私の解釈です。植木等はなんと無責任に凄いことを歌っていたではありませんか。