トッシーの一口小話

トッシーの一口小話 歌にみる仏教観

五、千の風になって 死生観について

 毎朝、犬の散歩がてら、小一(六歳)と小二(七歳)の二人の孫娘の登校に付き合っています。最高の至福の時です。梅雨時には、道路にいっぱいミミズが死んでいます。なかには、まだ死にきれずにのたうちまわっているのもいます。私は草の葉ですくってもとの草むらの影に返してやっています。ある日、それを見ていた小一の孫娘が「死ぬのは、自分の責任でしょう」と言ったことがありました。「そんな可愛そうなこと言いうなよ」と答えながら、まだ、幼子とばかり思っていた孫娘にもこんなことが言える知恵がついたのかと感慨にふけることでした。と同時に、ミミズに死への責任があるのかなあ、と考え込んでしまいました。ミミズはただ夜の雨に誘われて、湿気を求めて道路に出てきたら、朝日に照らされて干からびてしまっただけのことです。雨が降るのも、ミミズが這い出すのも、朝日が昇るのもごく当たり前の自然現象です。ただ、自然に生きるときは生き、死ぬときは死ぬ、ただそれだけのことです。ミミズにとって、自由とか責任とかいう問題以前のできごとです。それを可愛そうと思ったのは私の人間的感情に過ぎません。ミミズには生死のイメージはありませんし、生の喜びもない代わりに死の恐怖もないでしょう。ミミズは自分の意志で道路に出てきて、自殺したわけではありません。そんなこと思いもしなかったでしょう。

 死の意識と死への自由は、進化の最終段階で人間だけに獲得された、きわめて重要な意味をもつものです。犬や猫ですら、死のイメージはありません。ですから、どんな過酷な環境におかれても、みずから死を選択することはありません。責任は自由な自己決定に必然的に伴われるものですから、死への責任を取れるのは人間だけです。その人間ですら、親鸞の他力の根本原理、すなわち、「さるべき業縁のもよほせば、いかなるふるまひほもすべし」(そうしかすることができないようなどうしようもない状況に置かれたら、そうするしかしようがないではないか)ですから、責任の取りようもないでしょう。

 第0章の一で述べたように、一日のご破算が「夜眠ること」だとすると、人生の究極のご破算は何と言っても、「永遠に眠ること」、つまり〈死〉」です。死生観については、古今東西をつうじて夥しい本が出版されています。最近、新井満が作者不明の英語の原詩を翻訳して作った「千の風になって」を、秋川雅史が歌って大ブレークしました。新井満の著書『千の風になって』によりますと、その詩の内容は、死と再生、霊魂不滅を表現したものです。死ぬと、千の風になって大空を吹きわたる、と歌っています。墓の中で静かに「眠ってなんかいない」のです。そして、空を吹きわたりながら、ある時は光、またある時は、雪や鳥や星に生まれ変わって「あなたを見守る」のです。この詩の特徴は、ふつうなら、残されたものが逝ってしまった大切な人を偲んで生者から死者へ贈る言葉がつづられるのに、冒頭、「私の墓の前で泣かないでください」と歌っているように、死者が生者をいたわり慰める言葉になっているところです。魂はいろいろな姿になっていつまでも生者を「見守り」つづけるのです。

 新井満は、この詩の鍵は「風」にあると言っています。

 

〈風とは、いったい何だろう・・・・?〉
 風を見た人は一人もいない。つかまえた人も一人もいない。にもかかわらず風はいつだってどこにだっている。自由自在に偏在している。生まれたと思えば、すぐに死ぬ。死んだと思えば、すぐに息を吹き返す。そうだ。風とは、息なのだ。大地のいぶきなのだ。地球の呼吸なのだ。千の風になるとは、大地や地球や宇宙と一体化することなのである。
・・・・・・・
 人は、人間としての役割を終えたあと、まずは風になり、大空を吹き渡る。次に雪や光や雨になり、鳥や星に姿を変えて、さらにさらに生きつづける。即ち、この地球上で太古の昔からえいえいといとなまれてきた〈いのちの大きな循環〉の中にくみこまれる、というわけだ。
〈いのちは、永遠に不滅〉という信念が作者にはある。要するに作者は〈死と再生の詩〉を書こうとしたのだ。

 

 ここで述べられていることは、霊魂不滅はともかくとして、柳澤桂子の『生きて死ぬ智慧』の死生観を思わせます。これは気鋭の生命科学者であった氏が、般若心経を科学的に解釈し、粒子(原子)一元論とも言うべき立場から心訳した素晴らしい書です。ベストセラーですのでお読みになった方も多いでしょう。

 氏は般若心経の一節を次のような現代文に訳しています。

 

お聞きなさい
あなたも 宇宙のなかで
粒子でできています
宇宙のなかの
ほかの粒子と一つづきです
ですから宇宙も「空」です
あなたという実体はないのです
あなたと宇宙は一つです。

(『生きて死ぬ智慧』より)

 

 般若心経で説かれる『空』の思想を、このように宇宙と生命の科学的真理で説明しています。氏の基本的な考え方は、宇宙が動き回る粒子で満たされているということです。私とか、あなたとか、その他どんな物でも、ある条件(縁)の下で、一時的に、粒子が高い密度で集まった固まりに過ぎません。ですから、私とか、あなたとかいうものは存在しません。それをあたかも実体的に自己と他者とを区別して二元論的に考える習慣が身にしみこんでしまっているのです。これは幻想に過ぎないと氏はいいます。宇宙に存在するのはただ粒子の濃淡だけです。「千の風」の風も粒子の運動なのです。

 生とは一時的に粒子が寄り集まって生命活動をすることであり、死とは、寄り集まっていた粒子が散らばって元の宇宙に帰るだけのことです。それが千の風になって大空を吹きわたる、ということでしょう。当然、「そこに私はいません」。そして、散らばった粒子は新たに他の粒子と寄り集まって、雪や鳥や星に生れ変わるのです。これが大自然の摂理です。「あなたを見守る」のは、実は、〈私〉ではなく、この大自然、大宇宙の営みなのです。

 私は、死とは、人生のご破算のことで、ゼロもしくは無になることだとばかり思っていました。ところがある本に、死ぬことは無限大になることだと書いてありました。「千の風になって」はまさにこれに近い死生観です。なにか壮大な気分になります。死はゼロであり、かつ無限大であるということができます。つまり、死=ゼロ即無限です。生が空であるばかりでなく、死も空なのです。

 高倉健が主演した映画「あなたへ」のように、私も死んだら海か山に散骨して欲しいと願っています。生れる以前のゼロ即無限の世界へ還るのです。