禅マインドフル・サポート実践法について

正宗分(しょうしゅうぶん) 禅マインドフル・サポート実践法

(5)マインドフルネス瞑想と坐禅瞑想との相違

 同じ瞑想法であるから、かなりの部分は共通している。ここでは、気づいた相違点を六点だけ挙げておく。

 カバットジンのマインドフルネスの三大要素は、①意図的に、②今この瞬間に、③評価することなしに、注意を向けることであった。②と③ については坐禅瞑想でも同じであるが、①については力点の置き方が違う。これが第一の相違点である。マインドフルネスでは、ボディー・スキャンで述べたように、“意図的”に体の隅々まで注意を集中することが強調される。しかし、坐禅瞑想では、何かに注意を向けようと“意図的にはからう”ことはしない。起こったら起こったまま、ただあるがままに気づいて捨離するのである。とらわれないことが強調される。ここが同じ瞑想でありながら、坐禅とマインドフルネスの根本的に異なる点である。

 第二はサマタ・ヴィパッサナー(止観)に関する相違である。上述のとおり、マインドフルネスはテーラワーダ仏教のヴィパッサナー瞑想に
準拠してプログラム化されたものであった。一方、坐禅では、たとえば、前に述べた『仏遺教経』の「禅定」の文にすぐつづいて「是(こ)の故(ゆえ)に汝等(なんだち)常に当(まさ)に精進(しょうじん)して、諸(もろもろ)の定(じょう)を修習(しゅじゅう)すべし(だから、あなた方は懸命に努力していつも心が静かに安らいだ禅定にあるように心掛けなさい)」とあるように、禅定(サマタ瞑想によるサマーディ)が重視される。止観は分けることができないが、それぞれの力点の置き方に差がある。

 第三の相違点は目的設定や効果への期待であるが、これは微妙である。カバットジンのマニュアル化された臨床マインドフルネスでは、時間ストレス、対人ストレス、仕事ストレス等のストレス低減を治療の直接の目的とする。したがって、治療効果のエビデンスを実証することが極めて重要な課題となる。ただし、セッションやホームワークでは、即座の効果を期待することなく、ただ実践することだけが要請される。

 一方、坐禅といえば、「悟る」ためとか「仏になる」ためという能書きが通り相場になっている。健康のためとか、長生きのためとか、ストレスが解消されて仕事に役立つとかという算盤勘定もあるかもしれない。が、坐禅はそういうことには何の役にも立たない。無功徳なのである。前述のとおり『普勧坐禅儀』には、仏になろうなどといった邪(よこしま)なはからいをもって坐ってはならない、と厳しく戒められている。ただ坐る、只管打坐である。

 微妙といったのはこういうことである。臨床マインドフルネスとピュア・マインドフルネスの違いといったらよかろうか。目標の置き方は確かに違うのであるが、効果を期待することなく、ただひたすらやり続けるという実践面では同じなのである。

 第四は上と関連している。マインドフルネスでは、マインドレスが否定されマインドフルであることが重視される。当然のことである。マインドフルとマインドレスが明確に概念区分されている。一方、坐禅では、マインドフルでもなくマインドレスでもない我執を離れた安らぎと穏や
かな境地が求められる。『普勧坐禅儀』では、「唯(た)だこれ安楽の法門なり、菩提(ぼだい)を究盡(ぐうじん)するの修証(しゅしょう)なり」と表現されている。修証とは、修行それ自体が即ち悟りということである。修行を重ねて悟りに至る、と二つを分けては考えない。もっとも、マインドフルネスにおいても、気づき、受け入れ、そして手放すことがその内容とされている。ただそのプロセスにおける“即”の考え方と手放したあとの境地について質的な相違があるように思う。

 第五は姿勢の違いである。カバットジンのマインドフルネス技法の中核はボディー・スキャンである。坐瞑想や歩行瞑想(マインドフル・ウォーキング)も取り入れられているものの、相対的な重みは断然ボディー・スキャンにある。最初の4週間はこれが中心に実践されるし、最後のセッションでも行われる。ボディー・スキャンの姿勢は仰臥である。これに対して、禅の行法は徹底して坐禅である。坐位で行われる。仰臥禅は、江戸時代の貝原益軒や白隠禅師に取り入れられてはいるが、禅の修行法の主流ではない。傍流とも言えない。坐位か仰臥位かの違いは大きい。

 なお、坐禅は身即心であるから、『普勧坐禅儀』の正宗分で正身端坐の姿勢の調え方が事細かに規定されている。マインドフルネスでも坐瞑想で姿勢を正すことが求められているが、身即心をあまり強調しないために坐禅ほど厳しくはない。

 第六の異なる点は言語化の有無である。マインドフルネスでは、今この一瞬の体験に気づいたことを、あたかも実況放送するかのように、言語化することが求められる。言語化することによって気づきがより明確
に実体化されるのである。しかし、仏教の坐禅では、少し意味は違うと思うが、たとえば『普勧坐禅儀』の序分に「所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋(たず)ね語(ご)を遂(お)うの解行(げぎょう)を休(きゅう)すべし」とあったように、また禅でよく「不立文字」といわれるように、言語を離れて、今この一瞬の直接体験を黙想するだけである。言語のもつ分別機能と実体化機能を否定するからである。ここが、キリスト教圏の「はじめに言葉ありき」の世界とは決定的に違う点である。