ミヒャエル・エンデの名作『モモ』に登場する道路掃除夫ベッポの話はその好例の一つである。道路を掃除している彼の仕事ぶりに禅の修行者の影をみることができる。次の引用文は、まるで一足半趺の経行を思わせる。
道路の掃除を彼はゆっくりと、でも着実にやりました。ひとあし進んではひと呼吸(いき)し、ひと呼吸(いき)ついては、ほうきでひとはきします。ひとあし―ひと呼吸(いき)―ひとはき。ひとあし―ひと呼吸(いき)―ひとはき。
こうして、ベッポはいまやっている仕事に全精神を集中することによって、禅でいう「三昧」の境地に達する。この「一歩(いっぽ)=一呼吸(ひといき)=一掃(ひとは)き」を、重松宗育は『モモも禅を語る』の中で、「まさにベッポ流の『数息観』に他ならない」と述べている。
『モモ』の作品のなかで、ベッポの人生観を述べた一節が、モモの「聞く力」のくだりと並んで、もっとも強い印象を読者に与える部分である。たとえば、たくさんの量をこなさなければならない仕事のとりくみ方を、モモにこんなふうに語っている。
「なあ、モモ、とっても長い道路を受け持つことがよくあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない。こうおもってしまう」。
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「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息が切れて、動けなくなってしまう。こういうやりかたは、いかんのだ」。
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「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん。わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひとはきのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな」。
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「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな。たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃだめなんだ」。
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「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶ終わっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからん」。彼は一人うなずいてこうむすびます。
「これがだいじなんだ」。
これは逆説的な真理である。「一歩=一呼吸=一掃き」の動作に神経を集中することによって、意図せず仕事が楽しくなり、いつのまにか終わっている。重松の言葉を借りると、このように、エンデはベッポの口を通して、大きな仕事をする時の心構えを説き、見事に三昧の智慧を描いているのである。ただひたすら、「今ここに心が居合わせている」のである。これが禅の極意である。