人生ご破算で願いましては

序説 発菩提心

四、鬼か仏か

 私は現職時代、学生たちに「仏の十島」と呼ばれていました。奇しきえにしでせっかく私のつたない講義を受講してくれたのですから、ありがたく感謝して、白紙でない限り、誰にでも単位を出していたからです。学生たちにとっては、楽勝教員だったのです。教育に無責任の誹りは免れません。

 むろん、生身の私は、仏でもなければ鬼でもありません。いや、関係次第、縁次第で仏にもなれば鬼にもなる、と言った方がいいでしょう。

 五十年近く前、私がまだ教員に成り立てのほやほやの頃のことです。学期末試験でとても苦い経験をしたことがありました。多少の遊び心もあって、六〇点未満、つまり不合格の答案に、零点も三〇点も五〇点もすべて五九点とつけたことがありました。どうせ同じ不合格なのだから、その方が学生たちも気分がいいだろうと勝手に思い違いしたのです。私としては、単なる不合格の記号のつもりでした。ところが案に相違して、五九点をもらった学生たちが、「あと一点をなぜくれない」、「一点ぐらいで落とすとは教育的配慮に欠ける」、「一点で自分の人生を狂わせるとは理不尽だ」などと血相を変えて抗議してきたのです。まだ大学紛争の余韻が残っていた頃でしたので、その影響があったのかもしれません。温情のつもりが仇(あだ)となったのです。いくらこれは不合格の記号だ、と答案を見せて説明しても聞き入れる耳はありませんでした。ほとほと対応に困窮しましたが、こちらもいったん欠点を出したからには、学生がいくら粘ってもおいそれと一点を加えるわけにはいきません。どんなに激しく言い寄られても梃子(てこ)でも単位は出しませんでした。その時、私と学生とはまさに鬼関係です。学生の間で、「あいつは仏なんかじゃない、鬼だ!」と悪評が広がりました。物事はすべて関係次第、縁次第です。できれば、いつでもどこでも誰とでも仏関係でいたいものですが、現実はなかなかそうはいきません。

 橋田壽賀子の人気テレビドラマでは、「渡る世間は鬼ばかり」だそうです。この題名は「渡る世間に鬼はなし」のもじりです。世間に鬼がいないどころか、「渡る世間は仏ばかり」のはずです。なにしろ、「山川草木悉有仏性」なのですから。しかし、「世間で仏と出会う」ためには、まずなにより、自分自身が仏であることが必須の前提条件です。

 ところが、悲しいことに、あの偉大なうちの上(かみ)さんが言います。

 「あなたの後ろ姿には鬼が見える」と。

 私はこれまで「いつでもどこでもにこやかに」を人生のモットーとして生きてきたつもりでした。でも、前姿はいくら取り繕えても、後ろ姿にはついどうしようもなく本心が現れてしまうものなのですね。五〇年以上も一緒に連れ添っている上(かみ)さんには隠しようがありません。相田みつをも書いています。

 

自分のうしろ姿は自分ではみえねんだなあ

 

 人の心には、誰の心の中にも、仏が住めば鬼も住むし、神が宿れば悪魔も宿っています。人間をしている限りどうしようもない業(ごう)です。「知らぬが仏」で「知れば鬼」です。私は今、自分の心の奥底に巣くっている鬼退治に悪戦苦闘しているところです。

 

どうしようもないわたしが歩いてゐる

 

 ご存じ種田山頭火の句です。まったくそうだよなぁ。いつも心では、天使のように美しく清らかでありたいと願っていながら、その闇には、つい悪魔を宿してしまいます。しかも、天使の優しい声にではなく、悪魔のまがまがしいささやきの方に惹かれる私がいるのです。自分を持て余しながら、どうしようもないわたしが歩いています。