人生ご破算で願いましては

第0章 人生の清算

一、終わりは始まり

 現代はコンピュータの時代ですから、ソロバンはめったに眼にしません。

 私たちが子どもの頃は、計算はもっぱらソロバンでした。先生が「ご破算で願いましては」と掛け声をかけると、生徒はいっせいにソロバンを前に倒して珠をいったん全部下に下ろし、それから机に平面に戻して一番上の五の珠を人差し指で横にすっと引くと、五の珠が全部上に上がります。次の計算を始める前に、ソロバンをゼロの状態にするのです。国語辞典には、ご破算とは、「そろばんで、それまでの計算を終えて珠を零の状態に戻し、新しい計算ができるようにすること」「今までやって来た事を、最初の何もなかった状態にもどすこと」とあります。

ご破算状態のソロバン

 お店で買い物をする時、お店の人は必ずレジスターのクリアーキーを押して前の買い物客の合計金額をいったんゼロへリセットしてから、次の客の買い物の金額を打ち込んでいきます。

 当たり前のことです。

 もし万が一、前の客の金額をそのままにして次の客の金額を打ち込んだとすると、とんでもない合計金額になります。客が怒るのは必定です。幸い私自身はそういう経験をしたことはまだ一度もありません。

 新聞のテレビ欄では、十二時は0で表示されています。アナログ時計には、0の数字はありません。でも、針がちょうど夜の十二時を指すと、私たちは午前0時になったと言います。何より証拠には、ディジタル時計では、二十三時五十九分五十九秒の次の瞬間には二十四時ではなく、0時の数表示がなされます。新しい今日がはじまるのです。大晦日の除夜の鐘が鳴り始めると、やがて午前0時となり、その瞬間に行く年が来る年に変わります。一の前はゼロです。ですから、午前一時の前の二十四時が0時ということになるのです。すべてはゼロに戻って、毎日が繰り返され、毎年が繰り返されるのです。ゼロは終わりと同時に始まりを指示する大切な記号です。

 ところが、アナログ時計にも暦にも0表示がないのはどうしてでしょう。それは、インドですでに六世紀頃にはゼロが発見されていたにもかかわらず、西欧世界でゼロが使われはじめたのはなんとそれから約千年も後のルネッサンス末期、十六世紀になってからのことです。ですから、時計や暦が作られたときにはまだゼロの概念がなかったのです。月の最終日である三十日または三十一日が0日でないのはそのためです。

 新幹線の日本最南端の駅は鹿児島中央駅です。大阪や博多からの列車の終着駅であると同時に始発駅でもあります。到着するとすべての乗客が下車したあと、次の乗客を乗せて、すぐに博多や大阪へ出発します。このことが毎日ほぼ三十分間隔で繰り返されます。さしずめ鹿児島中央駅は機能的にゼロ駅ということでしょうか。

 ソロバンの「ご破算」にしろ、レジスターの「ゼロへのリセット」にしろ、いずれも次の計算をするための準備です。ソロバンやレジスターをゼロへリセットするのは簡単ですし、ふだんは何気なくやっています。しかし、問題は、私たちが日常生活を送る場面でも、同じことがやれているかどうかです。毎日の生活は、「朝起きて、昼働いて、夜眠る」だけのいたって単調な同じ事の繰り返しです。この「夜眠る」ことが、その日一日をご破算にし、ゼロへリセットするための重要な役割を果たしているのです。昼間の残り物を引きずったままだと、なかなか寝付けませんし、寝付けても悪夢ですぐに目が醒めてしまいます。もしリセットし損なって睡眠不足だと、朝すがすがしい気持ちで起き上がれないばかりか、一日中頭が重くて、仕事にも支障を来(きた)してしまいます。睡眠障害ほど辛いものはありませんし、逆に、快眠ほど幸せを感じさせてくれるものもありません。「安らかな眠り」は私たちの生活においてとても大切なものです。ですから、孫娘が「お休み」と就寝の挨拶にきたときは、必ず「お休み、いい夢みてね」と挨拶を返します。これが私と孫娘の間で交わされる毎晩の儀式になっています。人生の三分の一もの大切な時間が一日をリセットするための睡眠に割り当てられているのもわかります。

 坐禅で坐っている時、ふと気づいたことがありました。悟りの境地というものはよくわかりませんが、もしかして、坐禅は人生をゼロへリセットする行為ではないか、ひょっとして自分の心を「ご破算」状態にすることではないか、と。日常生活の中ですでに終わった事を一回一回ご破算にして、心を常にゼロにリセットすることは、とても大切なことですし、次の一歩を踏み出す条件として絶対不可欠です。

 それなのに、それがとても難しいのです。過去の経験や出来事をそう簡単にご破算にすることはできません。むしろ、今やらなければならないことに精神を集中させるというよりは、もう終わってしまったことをひきずっていつまでもくよくよと思い悩んでいることの方が多いのではないでしょうか。仏教ではこれを執着とかとらわれといって、苦の種と考えています。それは、前の客の計算をそのままにして次の客の計算をするのと同じようなことです。ごちゃごちゃになって、何しているのかわからなくなります。

 カウンセリングで一日に何人かのクライエントと面接する場合、同じようなことが起こります。心がきちんと今ここに居合わせていて、目の前のクライエントの話にとどこおりなく耳を傾けなければならないのに、前の面接を引きずって、「あのときああ言えばよかった」だの「こうすればよかった」だのと前のことに心がとらわれて上の空で話を聞いていることが時々ありました。一つ一つの面接は、終わったら次に積み残さないで、いつでも即座にゼロに清算できるのがプロの技です。実際にはそれがなかなかできないのです。禅で「前後際断」、つまり前と後の際(きわ)を明確に切断すること、が強調されるとおりです。「昔があったから今がある」とか、これを否定的に表現して「昔がなければ、今はない」というような言い方をよくしますが、「昔は昔、今は今」も一面の真理です。

 法然の「専修念仏」、あるいは道元の「只管打坐」などの仏道修行は、ただひたすら今やっていることに成り切り、成り続けることによって、我執に充ちた経験を絶えず無、あるいはゼロへリセットすることだと、理解しています。それが、今ここ(而今(しきん))に生きるための行(ぎょう)なのです。

 やっているかどうか、やれているかどうかは別にして、日常生活において、私たちは生き方の基本としてゼロへリセットすることを大事に考えています。何か事がうまくいかないと、「一からやり直す」という言い方をしますが、本当は「ゼロからやり直す」と言うべきでしょう。出発点は一ではなく、つねにゼロなのですから。山で道に迷った時は、道を探してあちこちと気忙しく動き回らないで、もと居たゼロ地点の場所に引き返し、そこでじっと救援を待つことが登山の鉄則になっています。動き回れば動き回るほどますます道に迷ってもといたゼロ地点さえわからなくなってしまいます。

閑話休題一伊勢神宮の遷御

 ご存じのとおり、伊勢神宮には皇室の祖神とされる天照大神(あまてらすおおみかみ)が祭られています。その伊勢神宮で、平成二十五年十月二日の夜に、「遷御(せんぎょ)の儀」が営まれました。新聞やテレビで大々的に報道されていました。それによりますと、「遷御の儀」とは、二十年に一度社殿を建て替え、旧正殿から新正殿へご神体の「八咫(やた)の鏡(かがみ)」を移す神事のことで、八年間にわたる伊勢神宮の式年遷宮の三十近い祭事や行事のクライマックスだそうです。戦国時代に中断はあったものの、約一三○○年前の飛鳥時代からつづく神事で今回は六十二回目に当たるということです。内宮や外宮のほか、十四の別宮社殿も造り替え、奉納する宝物などもすべて新調するため、かかった経費の総額は約五七〇億円でした。一年前伊勢神宮に参拝したとき、来年が式年遷宮の年だという話を聞いて、まだ二十年はもちそうな建物なのに、ご破算にするなんてもったいないなと思いました。でも、そう思うのはゲスの考え。なぜこんな高額をかけてまで社殿や宝物を二十年に一度新しくするのかというと、常に若いまま、いつまでも変わらない永遠の姿を目指し、国の繁栄を願う「常若(とこわか)」の精神に基づくということでした。命の新陳代謝です。つまり、伊勢神宮の「遷御の儀」は神事におけるゼロへのリセットだったのです。これだけの金をかけてもいさぎよくやる意義がゼロへのリセットにはあるのです。