人生ご破算で願いましては

第0章 人生の清算

三、後始末

 後始末は、日常生活における「ご破算」の実践です。私たちは、食事の後片づけや掃除、洗濯など、何かしたらその都度必ず「後片づけ」をしています。これをやっておかないと、次にするとき、それがやれないからです。でも、それだけに止まらず、「後始末」にはそれ以上の何かがあります。学校教育で挨拶や礼儀とならんで掃除や後片づけを厳しくしつけるのもそのためです。

「飯喰ったか、茶碗洗っとけ」

 禅関係の本を読んでいると、よく中国の趙州(じょうしゅう)禅師のいろいろの逸話が出てきます。その一つに「洗鉢盂去(せんはつうきょ)(その鉢を洗いなさい)」というのがあります。以下、中野孝次の『道元断章』より引用。

 新入りの若い修行僧が趙州禅師に尋ねます。「悟りを開く修行は、どのようにすればよいのでしょうか」。

 

禅師は問います。「朝の粥はいただいたかね」
修行僧は答えて、「はい、いただきました」
禅師はただ一言、「すんだら鉢を洗っておきなさい」

 

 仏道修行といっても何か特別のことがあるわけではありません。日常生活の行住坐臥、一挙手一投足がこれ修行なのだ、と趙州は説いているのです。日常是弁道といいます。弁道とは、仏道修行に一心に励むことです。

日常是弁道

 これと同じような逸話が道元の『典座教訓』にも出てきます。道元が宋の留学中に体験した忘れることのできない印象深い出来事です。そのうちから有名な二つの話を上げておきます。

 道元一行が宋の港に到着し、船上で上陸許可を待っているときのことです。阿育王山で典座(てんぞ)(食事係)をしている一人の老僧が椎茸を買いに訪れます。若い道元ははじめて会う宋の僧と問答がしたくて一晩ゆっくりしていくように勧めます。ところが、この老僧は、全山の僧たちにうどん汁を作って食べさせなければならないから、すぐ寺に戻ると言います。その時の道元と老僧との会話です。

 

道元「あなたがいなくても食事の支度に困ることはないでしょう」
老僧「これは私の仕事だし、自分の弁道なのです」
道元「お見受けしたところ随分お年を召されているようですのに、なぜ坐禅したり、経典を読んだりせず、食事つくりみたいなことに精を出しておられるのですか」
すると、カラカラと大笑して曰く、
老僧「外国のお若い方、あなたはまだ弁道の何たるか、文字の何たるかをおわかりになっていないようじゃ」

 

 もう一つのエピソードは、道元が天童山で修行していたときの出来事です。一人の老僧が真夏の日照りの中で笠もかぶらず汗をだらだら流しながら苔を晒す作業をしています。それを見かけて尋ねます。

 

道元「年老いたあなたが作務をなさっているのには感じ入ります。でも、どうして他の人にやらせないのですか」
老僧「他(かれ)はこれ吾(われ)にあらず(他人にやらせたのでは自分の行持にならない)」
道元「こんな日の照りつける日中にどうしてそこまで苦しんでやる必要があるのですか」
老僧「更に何の時をか待たん(今やらなくて、いつやるときがあるか)」

 

 これらの体験が道元に日常是弁道ということを強く焼きつけました。坐禅をしたり、経典を読むだけが仏道修行ではありません。ましてや、食事を作る作業は弁道とは無関係な下劣な仕事などでは決してないのです。日常生活のごくあたりまえのことをあたりまえにすること、今やるべきことを今やるだけのことです。その一つひとつは取るに足りないささいなことかもしれません。しかし、そのことに成り切り、成り続け、成り遂げることです。一心に、いや無心に。

草抜き弁道

 修行僧たちは、よく雑巾と箒をもって寺の廊下拭きや庭掃除をします。以前、永平寺を訪れたときも、作務衣を着て頭にタオルを巻いた修行僧たちがせっせと草抜きをやっていました。

 草抜きといえば、仙台市にある慈眼寺の塩沼亮潤住職があるお坊さんの話として次のようなことを書いています(『忘れて捨てて許す生き方』)。そのお坊さんは全国を講演してまわるほどの説法上手な方でした。

 

その方の若い頃、師匠であるお父さんは草抜きばかりしていたそうです。・・・お父さんがどうしても冴えないお坊さんに見えて、「うちの師匠は草抜きばかりして・・・」とあまり尊敬できなかったといいます。しかしその方も晩年はこう漏らすようになりました。「坊さんというのは、あんまり喋りすぎてもいかんし、ものを書きすぎてもいかん。やはり自分の師匠のやっていたことが、ほんとうに偉かったんだなあ」。そして、ご自身も、お父さんと同じように晩年は草抜きをするようになったという。

 

草抜き是弁道だったのです。

 道元の「現成公案」の巻頭に「しかもかくのごとくなりといえども、花は愛惜(あいじゃく)に散り、草は棄嫌(きけん)に生うるのみなり」という言葉が出てきます。「しかもかくのごとくなりといえども」の言葉は、その前の「ふつうの現象世界は個々ばらばらに分離した区別の世界のように見えるけれども、空を悟れば一切の存在の区別はなくなる」という趣旨の言葉を受けて、たしかにそれはそうなんだけれども、逆に、空なればこそ、その真理に裏づけられて、いくら惜しんでも花は散るときがくれば散るし、いくら厭うても時節がくれば草は生い茂るのです。これがあたりまえの現象世界なのです。でもやはり、「花が散るのは惜しく、雑草がはびこるのはうっとうしい」ものです。「悟ってみれば、柳は緑、花は紅」と同じ謂いです。

 たしかにそれはそうなのですが、花も草も同じいのちです。仏教では、「いのちは大切」と説きながらなぜ修行僧たちは作務で花は残して草だけを抜くのでしょうか。緑の草が生えているからこそ赤い花が美しいのです。ある時、山頭火が、

 

僕は百合の花や牡丹の花も美しいとは思うが、野人山頭火には雑草がなつかしい。生えるまま、伸びるまま、咲くがままにしてそれを雑草風景として眺めることが好きなんだ。

 

といつも言っていたという話を聞いて快哉を叫んだことがありました。私も草一つはえていない花園の整然と見事に咲かされている薔薇やチューリップも美しいとは思うのですが、散歩しているときに、ふと見かける道端の草におおわれた名もない小さな野の花の方に心が動かされます。

 永平寺の修行僧たちが作務でなぜ草抜きをするのだろう、と考え倦(あぐ)ねていたところ、山頭火の

 

ぬいてもぬいても草の執着をぬく

 

という句を読んで気づきました。そうだったのか、草は人間の執着そのものだったのか。修行僧たちは、草抜きの作務で自分の中の執着をぬいていたのか、と納得できました。「とらわれるのでもなく/とらわれないのでもない/我執を離れた/自由な心」が理想の境地です。

雑草