人生ご破算で願いましては

第0章 人生の清算

六、観の転換

 観の転換は、人生をゼロへリセットすることと同義です。

 柳澤桂子の神秘体験の話を紹介しましょう。彼女は、若い頃、発生学の研究で世界に先駆ける成果を残しながら、原因不明の難病におかされて三十数年間におよぶ闘病生活に苦しめられました。将来を嘱望されながら研究者としての人生を断念せざるを得なかった彼女の心中は察して余りあります。彼女自身、ついには宗教に救いを求めざるを得ない心境に追い込まれたと告白しています。独学で宗教書を深く読み込み、二○○四年に出版された『生きて死ぬ智慧』は般若心経の科学的心訳として読書界で大反響を呼びました。その冒頭の文章が多くの人びとの心を捉えたのです。

 

人はなぜ苦しむのでしょう・・・
ほんとうは
野の花のように
わたしたちも生きられるのです

 

 彼女は詩人でもありますので、多くの素晴らしい詩を残しています。そのうちでも私の心を一番うつのが次の詩です。

 

人生を 成就できない 悲しみは
月で汲み上げ 銀河に流す

 

 何と素敵で壮大な詩でしょう。自分の子どものように大事に育んでいた仕事が奪い去られた夜、現実の苦しみから目をそらすように、橋本凝胤の『人間の生きがいとは何か』を一語一語噛みしめるように読み耽り、読み終わるころには外がしらじらと明るくなりはじめていたそうです。神秘体験が起こったのはまさにそのときでした。その体験を彼女は『いのちの日記―神の前に、神とともに、神なしに生きる』の中で次のように綴っています。

 

白く浮かび上がった障子を眺めていた私は、突然明るい炎に包まれた。
熱くはなかった。ぐるぐると渦巻いて、一瞬意識がなくなった。
気がついてみると、それまでの惨めな気持ちは打ち払われ、目の前に光り輝く一本の道が見える。
私は何か大きなものにふわりと柔らかく抱きかかえられるのを感じた。その道はどこへ行くのかわからなかったが、それを進めばよいことだけははっきりわかった。
「そうだ。生きるんだ。仕事をしなくたってきっと生きられる」。

 

 この一瞬のできごとで、彼女は恍惚となり、何か大きなものに抱かれた感じにうたれたそうです。彼女は科学者だけあって、このような神秘体験は神秘ではなく、強烈なストレスにさらされるときに分泌される脳内快感物質のせいだと説明しています。

 もう一つ彼女の神秘体験から引用しましょう。

 ある日、車椅子で道を通っていたら、通りがかりの婦人に「大変でいらっしゃいますね」と声をかけられて、「私は、憐(あわ)れまれているのかしら」とちょっといやな気持ちがしたそうです。その日は妙にそれにこだわって、車椅子を少し進めてから、道端にとまって考え込んでいたとき、かつての神秘体験に近い恍惚感に包まれ、身震いするほどの感動を味わったということでした。そしてつぎのような観の転換を得られたのでした。

 

「憐れまれている」などといういやな気持ちは、私があそこにいたから出てきたので、私がいなければ、この気持ちも存在しないのだ。
「私さえいなければ」と悟ったときに、ぱっと空が開けて、本当に幸せな状態になれました。これが直接のきっかけでしたが、何かきっかけがあれば、ぱっと開けるところまで来ていたのだと思います。とても些細なきっかけで、開けたんです。いやだとか、辛いとか、
そうした感覚は、全て私がいるからだと心の底から思えました。
 これは私にとって大きな体験であった。それ以後、私には自分が不幸であるとか、人を恨むとかいう気持ちがなくなった。

 

 精神科医の神谷美恵子によりますと、このような体験は多くの場合、「ひとが人生の意味や生き甲斐について、深い苦悩におちこみ血みどろな探求をつづけ、それがどうにもならないどんづまりにまで行ったときにはじめておこる」のだそうです。

 それで納得しました。私が自分の人生をご破算にできず、いまもってぐずぐずと過去を引きずっているのは、彼女の体験に比べて私の退職後うつ体験は取るに足りない些事で、苦悩に深みがなかったせいなのです。残念ながら、いまだ観の転換は体験しておりません。彼女の体験は極めて特殊なもので常人が誰でもというわけにはいきません。でも、退職後うつは、その時期になれば誰もが多少は経験することです。そのようなごくふつうの軽微な体験による「ご破算」を考えてみることはまったく無益なこととはいえないでしょう。

閑話休題二 眼横鼻直 空手還郷

 突然話が変わります。道元が二十三歳(一二二三年)で入宋し二十七歳(一二二七年)で帰朝したときの右記の言葉についてです。宋の天童如浄禅師のところで、「眼横鼻直」、言い換えると、毎朝日は東から登り、毎晩月は西に沈む、ただそれだけのあたりまえのことがあたりまえにそこにある、あるがままの世界があるだけだ、という真理を体得することができたから、「空手還郷」、つまり経典も新しい知識や技術も何も持たず手ぶらで帰ってきた、というのです。

 ふつう、僧が中国に渡って帰ってくるときには、経典だけでなく、お茶や土木技術など何らかの実利のある手土産をもって帰ってきたものです。高い金を使って派遣されるのですから、そのようなことが期待されてもいたのでしょう。

 たとえば、臨済宗の開祖栄西は、中国の禅院で修行の一環として喫茶を体験して、茶の種子(もしくは苗木)を日本に持ち帰り、喫茶の習慣を広く一般に伝えたと言われています。手土産で有名なのは、何と言っても空海でしょう。空海は、八〇四年(三十一歳)に入唐し二年後の八〇六年に帰朝しています。二十年間の留学費用をなんと二年間で使い切ってしまうのですから、持ち帰ったものは、膨大で、経典類はいうにおよばず、土木技術や薬学など当時の唐の最新文化の数々でした。

 このような伝統の中で、こともあろうことか、道元は、「空手還郷」したのです。このことは『、永平広録』に書かれており、本人が言っているのですから、そのとおりなのでしょう。がしかし、文字どおりに受取ることはできません。なにせ、道元は、十二歳で出家し、比叡山で天才秀才の名をほしいままにした人です。比叡山を下りた後も高僧を尋ね歩き、修行に修行を重ねてあらゆる経典、文献に精通していたのです。「空手還郷」というのは、宋の天童如浄の下で、これまで身につけてきたものを一切捨て去って、まっさらになって帰ってきたと解すべきでしょう。一切を捨て去って、まっさらになることを、道元は「身心脱落・脱落身心」と言っています。道元が如浄のもとで身心脱落体験をしたのは、二十五歳のときでした。彼が宋で学んだのは、言ってみれば、ただひたすらゼロへリセットするための修行でした。ゼロへリセットすることができてはじめて「眼横鼻直」というあたりまえの真理を悟ることができたのだと思います。