人生ご破算で願いましては

第一章 初期化とネオテニー

二、人間はサルのネオテニー?

ネオテニー論について

 オタマジャクシは両生類のカエルの幼生形態です。オタマジャクシであれば、やがて手足がでてシッポがなくなり成熟した成体のカエルへ成長して生殖機能をもつようになります。これが自然界にごくふつうに見られるあたりまえの現象です。

 ところが、神様のいたずらでしょうか。自然界には不思議な突然変異が起こるもので、オタマジャクシの形態のままで成熟し生殖機能をもつことがあります。ウーパールーパーというオタマジャクシの親玉みたいな水生生物がまさにその例です。要するに、幼形を保ったまま成体となり性的成熟に達するのです。

ウーパールーパー

 このような現象を生物学では、「ネオテニー(neoteny)」といいます。日本語では幼形成熟とも幼態成熟とも訳されています。ネオテニーの現象は、進化の過程で重要な役割を果たしているというのが進化論の一説です。幼態成熟の場合、各種器官の特殊化が未成熟である分、環境の変化に対する適応の可塑性が高いという利点があるというのです。

人類ネオテニー説(ヒトの胎児化仮説)

 進化論では、人類はチンパンジーの胎児のネオテニーであるというかなり説得力のある仮説があります。つまり、チンパンジーの胎児がそのまま成熟して成体となり、生殖機能をもつようになったのが人間である、というのです。一九二六年にオランダの解剖学者・L・ボルクが提唱した「人類ネオテニー説(ヒトの胎児化仮説)」です。人間の体型的な特徴が、チンパンジーの幼形と似ており、共通点が多いということがその証拠としてあげられています。

 人はチンパンジーよりも長い間子どもでいます。動物の場合、じゃれて遊ぶのは子どもの頃に限られますが、人間は大人になってもよく遊びます。この遊びの習性が人類の知能を飛躍的に発達させ、文明・文化の進歩の原動力にもなったということです。身体的能力では、サルに劣る人間が、知性にかけてはサルに格段勝るのは、大人になってもよく遊びよく学ぶせいです。

 京都、安泰寺の沢木興道老師は面白いことを言っています。「坐禅とは仏ごっこをして遊ぶことである」と。この坐禅の定義がとても気に入っています。何かを求め、何かのために坐るのではなく、子どもがただ楽しくて遊んでいるように、ただ楽しいから坐禅を坐禅しているだけのことです。坐禅も遊びなのです。

 要するに、人間は、子どもがそのまま大人になってしまった単なる劣ったサルなのだそうです。ほんと?といいたくなりますが、この仮説は、著名な学者の中にも、以外と支持者が多いらしいです。

人種のネオテニー度

 インターネットからのパクリです。インターネットで「ネオテニー」を検索していたら、真偽のほどは定かではありませんが、面白い話が見つかりました。人種でネオテニー度が異なるという意見です。ネオテニー度(幼体度)は、黒人が一番低く(だから、成熟度が一番高い)、次が白人で、もっとも高いのは黄色人種だということです。つまり、黒人が一番〈大人〉で、もっとも〈子ども〉っぽいのが黄色人種、白人はその中間といった意味のことが書かれていました。これは人種の発生の順序と同じだそうです。

 そう言われてみると、黄色人種は、体格的に体が小さく、体毛も薄く、体に比べて手足が短く、顔も扁平で凹凸が少なくて、ひ弱です。これはすべて幼体の特徴です。黄色人種は他の人種に比べて幼児に近いということです。

 日本人は、身体的能力が劣るので、ことスポーツにかけては、白人や黒人に敵うわけがありません。オリンピックは黒人の独擅場ですし、差別なくあらゆるスポーツに公平に参加することができるなら、他のスポーツでも同じことになるでしょう。ウイリアムズ姉妹が席巻した女子テニス界がそうでした。しかし、水泳で黒人選手をあまり見かけないのはどうしてでしょう。このことが常々気にかかっています。

 戦後まもなく、GHQの総司令官・マッカーサー元帥が「日本人の精神年齢は十二歳である」と発言して物議を醸したことがありました。日本人はアメリカ人に比べて自我形成や論理的思考など、精神的に幼く未成熟であると蔑視しているのです。でも、ネオテニー論からすると、発言した本人の意図はともかく、逆説的にあれは誉め言葉だったのかもしれないと受取って感謝してもいいのではないでしょうか。なにしろ、日本人のネオテニー度は高いと言ってくれているわけですから、白人に比べて進化論的に将来の成長・発展ののびしろが豊かであると勝手に解釈しておくのです。その方が大人の対応というものです。

閑話休題四創造的な人はネオテニー度が高い?

 「芸術は爆発だ」の画家・岡本太郎やタモリが敬愛してやまなかった漫画家の赤塚不二夫などは、社会的常識人からはほど遠く、まるで聞き分けのない子どものようです。だから、ふつうの常識人ではまったく及びもつかない奇抜な発想ができるのです。おそらく実生活ではとても傍迷惑なヤンチャ坊だったに違いありません。私は直接面識がございませんので、そうだったかもしれません。

 いわゆる思想家や宗教家、作家、芸術家など創造性を求められる職業人には、一般に、ネオテニー度が高く、永遠の子どもといった感じなのに、その知性はものすごく高いという人がいるものです。インターネットでは、次のような過激なことも書かれていました。「今や子供の時代なのだ。成熟することは、変化をやめることだ。だったら成熟しなくてもいいじゃん?成長の止まったものが大人なんじゃない。大人になることなんてやめよう」。ごもっとも。

 社会もネオテニー化が必要なのかも。