ボルグの「人類ネオテニー説」を敷延しますと、「仏は人間のネオテニーである」といえるかも知れません。実は、このことを言いたいがために、これまで随分回りくどい話をしてきたのです。
毎日実践している坐禅で、足を縛り手を組んで身動きできない状態で静かに呼吸していたとき、一瞬ですが、「あっ、今、俺胎児か」と感じたことがありました。自分が母胎に包まれて羊水に浮かんでいる胎児になったような錯覚に陥ったのです。「ゼロ即無限」に漂っている感じとでもいうのでしょうか。ある本に「坐禅とは、仏としての真の自己が坐っている姿である」という文章を見つけて、そうか、胎児は仏に近いんだ、と納得しました。
よく知られた古歌に
幼子の次第次第に知恵づきて仏に遠くなるぞ悲しき
というのがあります。
私たちは生まれたときにはみんな、仏のように無邪気で、無垢な心をもっていたはずです。その幼子が、いろいろ経験して学んでいくうちに知恵がついて、だんだんと仏の心を失っていくのが悲しいと詠っているのです。
吉田松陰は、二十六歳の時、十五で元服した従兄弟に次の諭しの言葉を贈っています。
今日よりぞ幼心(おさなごころ)を打ち捨てて人と成りにし道を踏めかし
今日から成熟した大人の道を歩んでいくからには、これまでの甘えた幼心を打ち捨てなければならない、と諭しています。知恵をつけて仏から遠ざかれと言っているように聞こえます。前の古歌を逆にパロルと、
老(お)う人(ひと)の次第次第に知恵去りて仏に近くなるぞ嬉しき
となります。痴呆は、悩みや苦しみの多かったこれまでの長い人生の記憶を最後に消し去って安らかに逝かせてやりたいという「仏の慈悲」だといいます。痴呆は、死ぬ前に人生をご破算にする格好の手段なのかもしれません。
古歌の「知恵づきて」とか、そのもじりの「知恵去りて」とかの知恵は分別知のことです。仏教では、知恵には、分別知と無分別知の二種類があると説きます。前者を「知恵」、後者を「智慧」と書き分ける場合もあります。
分別知は、私たちふつうの人間の大人の知恵です。それは、言葉や概念によって自他、善悪、正邪、因果、損得、美醜など二分法的に分けて考える知恵です。「分かることは分けること」です。この分別知がなければ、世知辛いこの世を生き抜くことなどとうてい不可能です。ですから、人は成長するに従ってさまざまな経験を通して分別知を身につけていくのです。この分別知は一人前の大人となるために絶対に必要なものです。でなければ、善し悪しの判断もつかない訳の分からないろくでなしになってしまいます。
ところが、これと並んでもう一つ大切な知恵のあり方があります。無分別知です。これは、ものごとを把握するのに、言葉や概念を介して分けることなく、それ自体としてあるがままに直接的に体得する智慧です。分別知を超越して到達した仏の智慧です。
赤ん坊の無垢な心は無分別知です。赤ん坊の穏やかな表情をbuddhaface(仏の顔)と言います。幼子の微笑みを見ると本当に仏様のようです。自己と宇宙とがいまだ未分化な一体の状態であればこそ、ものそのものと直(じき)に触れ合うことができるのでしょう。成長するということは、次第次第に分別知が無分別智を凌駕するようになることです。逆に、仏に近づくのは、この関係を逆転させることです。
むろん、幼子の無邪気で無垢な心がそのまま仏の心と同じというわけではありません。幼子の無垢な心はただ無垢なだけに過ぎません。が、仏の智慧はそれとは似て非なるものです。鈴木大拙の言葉で言えば「無分別の分別」です。
現実の生活では、身につけた分別知を最大限に活用して富や権力、名誉などを求めて懸命に力を尽くします。そこで、我執による人生の苦を知ることになるのです。この知恵づいた大人が仏に近づくためには、成熟して汚れた心をいったん初期化して、分別以前の純な幼心に巻き戻す作業が必要なのです。
仏、つまりブッダ(仏陀)とは、目覚め悟った人のことです。では、いったい何に目覚めるのでしょうか。それは、他に依ることなく自立して生きている一人前の大人だと不遜にも思い込んでいた自分が、実は、「母胎という宇宙にへその緒でつながっている胎児に過ぎないんだ」という真実に気づくことです。これは何かの本に書いてあった文章なのですが、申し訳ないことに出典を忘れて思い出せません。
聖書にも「あなたがたは、赤子のようにならなければ、天国へ入れない」とあります。同じことを、臨済宗の山田無文老師は、「赤子の心が悟るということだ」といっています。
前にも述べましたが、坐禅や念仏などの仏道の修行法は、この初期化の方法として開発されたものだ、と考えてもいいでしょう。仏道修行は、成熟した大人がさらにその延長線上で成熟するために行うのではなく、逆方向にただひたすら分別知を捨て去り赤ん坊に近づくように励むものです。この行によって無垢な赤子の心のまま成熟するということが起こりうるのです。それが仏ということです。仏教の目指すところも、煎じ詰めていえば、「仏とは、人間のネオテニーである」ということができます。