人生ご破算で願いましては

第二章 ゼロを深く豊かに

三、みつを 肩書きのない人生

 みつをには、あまりにも優しく繊細すぎるみすゞとは違って、良寛と同じ厳しい求道者の姿を感じます。それもそのはず、みつをは、十八歳(一九四二年)で生涯の師となる曹洞宗髙福寺の禅僧・武井哲応老師と出会い、在家のままで老師に師事して禅を学んでいるのです。ことに、道元の『正法眼蔵』に傾倒していたと言われています。彼が仏道修行に励むようになったのには、敬愛してやまなかった兄二人を第二次世界大戦で失ったことが大きく影響しています。肉親の死を契機に、否が応でも「生とはどういうことか?死とは何だろう?そして、いのちとはなんだ?自分はどう生きればいいのか?」という人生の根本的な問いに真っ正面から向き合わざるをえなかったのです。これがみつをの詩と書の背骨なり、生き方の原点になっています。

 

とんぼのいない
ゆうやけ空
をあおぎつつ
丘にいるのは
ただわたしだけ

 

 子どもの頃、兄弟三人で、丘に登ってとんぼが賑やかに飛び交う夕焼け空を仲良くながめていたのでしょう。ひとりっきりの淋しさ悲しみが伝わってきます。その悲しみは生涯癒えることはなかったといいます。

 みつをの人生や生き方については、子が親を語るという形で上梓された相田一人の『相田みつを肩書きのない人生』で簡潔に知ることができます。この本は、みつをが六十歳の還暦のときにはじめて世に出した、あのいまだにロングセラーをつづけている『にんげんだもの』の出版三十周年記念として企画されたものでした。

 良寛が世俗的な意味で何者でもなかったように、みつをは、書名にもあるとおり、いわゆる書家でも詩人でもない、厳しい肩書きのない生き方をみずから選びとったのです。本人は、常々、自分には自慢できる肩書きは一切ないと言って、名刺にはただ「相田みつを」とだけ印刷されていたそうです。覚悟して肩書きを捨てたのです。

 子どもの目から見ても潔いほど我がままで、家庭を省みることもなく、ただ筆一筋の人生でした。なにより大切なのは精神の自由で、これなしにはいい字は書けない、というのがみつをの信条でした。しかもその書は売るための書ではなく、どうしようもない衝動に駆られて書きつづけたものだということです。

 みつをが本格的に書を学びはじめたのは、十九歳の時ですから、武井老師と出会った翌年ということになります。伝統的な書の技巧をしっかりと身につけ、楷書も草書も一流の域に達していました。しかし、それにあきたらず、潔くそれも捨ててしまいます。名(肩書き)も捨て、実(伝統的な書の技巧)も捨て去るのです。こんなところも良寛を思わせます。そして、ゼロの地点から独自の書を追求する道を歩みつづけるのです。その道はとても険しい道だったようです。ようやく三十歳くらいの頃から、自分で詩を作り、それにもっとも相応しい書を自分で書く、詩書一如の世界を切り開いていきます。それが今日私たちがよく目にするあのみつをの書です。誰が見てもすぐにわかる独特の書体です。

 みつをがよく言っていたそうです。「技巧を凝らした達筆な字は人を感心させることはできても、人を感動させることはできない。無造作な子どもが書いたような字のほうがいい」と。みつをが追い求めていたのは、書き手の作為を感じさせない、まるで子どもが書いたような融通無碍な書でした。まさに書の幼児返りです。

 詩について見れば、苦しみにじっと耐えて生き残ったものだけが万能性を獲得する、というSTAP現象の初期化を思わせるような内容の書があります。「いのちの根」と題する詩です。

 

なみだをこらえて
かなしみにたえるとき
ぐちをいわずに
くるしみにたえるとき
いいわけをしないで
だまって批判にたえるとき
いかりをおさえて
じっと屈辱にたえるとき
あなたの眼のいろが
ふかくなり
いのちの根が
ふかくなる

 

 みつをの詩のなかでもっとも禅的な思想を反映したものの一つが、例の「雨の日は」でしょう。

 

雨の日は
雨の中
風の日は
風の中

 

 彼は、この言葉がよほど気に入ったとみえて、生涯にわたって繰り返し書きつづけています。雨や風の中をどうしようというのでしょうか。これは創作ノートに書かれた長い詩の一部です。内容は前の「いのちの根」と似ています。それにはこう綴られています。「・・・やることなすこと、みんな失敗の連続で、どうにもこうにも、動きのとれぬことだってあるさ・・・それでも、わたしは自分の道を自分の足で、歩いてゆこう、自分で選んだ道だもの―」、「涙を流すときには、涙を流しながら、恥をさらすときには恥をさらしながら・・・黙って自分の道を歩きつづけよう・・・そしてその時こそ、目に見えないいのちの根が、太く深く育つ時だから。何をやっても思うようにならない時、上にのびられない時に、根は育つんだから―」。この二箇所の―の後に、締めの言葉として「雨の日には」が続くのです。どんな困った状況や辛い状況、腹の立つ状況にあっても、愚痴や泣きごとなど言わずに、ただ黙って自分の選んだ道を自分の足で歩きつづけるということです。

 みつをの解説によりますと、「雨の日には、雨を、そのまま全面的に受け入れて、雨の中を雨と共に生きる。風の日には、風の中を、風といっしょに生きてゆく」という意味です。「そして、この場合の、雨や風は、次からつぎへと起きてくる人間の悩みや迷いのこと」、つまり煩悩のことです。何も特別なことはなく、ごくあたりまえの生き方のことで、人間誰しもそうとしか生きようはありません。でも、これが言うは易く、行うは難しなのです。

 私の言い方では、雨の日は雨に成り切って雨をゼロ化し、風の日は風に成り切って風を無化するということです。そうしたからといって、やがて穏やかな晴れの日が来ることが約束されているわけでは決してありません。ここが肝心のところです。今ここ、禅でいうに而今(しきん)だけです。

 この点良寛は徹底しています。

 

しかし災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候
死ぬ時節には 死ぬがよく候
是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候

 

 これは神戸大震災のような大地震に襲われ、大変な被害に遭遇した時の知人に宛(あ)てた手紙に書かれた言葉です。むろんこの前文に「地震は信(まこと)に大変に候」と前書きがあるのですが、誰でも何たる非常識なことを、と非難したくなります。でもこれが良寛の徹底した悟りの境地の表明なのです。これはあまりにも極端な例のように思われるかも知れませんが、良寛は言うまでもなく、みつをも正法眼蔵に精通していたのですから、「現成公案」の巻きの有名な「生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり」(生が死になるのでも、死が生になるのでもない。生は生として完結し、死は死として完結している)という道元の言葉が良寛の言葉とみつをの詩の背景にあることは容易に察しがつきます。