人生ご破算で願いましては

第二章 ゼロを深く豊かに

五、真民 念ずれば花ひらく

 英国に、「風の三月と雨の四月が美しい五月を作る」という諺があります。日本ではよく「明けない夜はない」とか、「朝の来ない夜はない」というポジティブな言い方をします。しかし、五月は五月で美しいけれども、三月の風も四月の雨もそれぞれに風情があっていいものです。五月の美しさを作るために、三月の風や四月の雨があるわけではありません。

 「明けない夜はない」けれども、逆に「暮れない朝はない」し、「朝の来ない夜はない」と同じように、「夜の来ない朝はない」というのが真実です。どうもポジティブ志向が強くて一方の言い方だけが好まれます。

 奇しくも良寛の命日が誕生日であることから現代の良寛と呼ばれることもある坂村真民は、また「宗教詩人」「祈りの詩人」ともいわれています。その真民の詩「必然」にはポジティブな面が強調されてこう詠われています。

 

夜は必ず明け光は必ず射してくる
念ずれば必ず花は咲き道は必ず開いてくる
この必然の祈りに生きよう

 

 世間では一般に「一寸先は闇だ」という言い方をしますが、真民は「一寸先は光だ」と言い切ります。ここが真民の人気のあるところでしょう。彼のよく知られた「鳥は飛ばねばならぬ」の詩では、最初と最後の言葉は「鳥は飛ばねばならぬ、人は生きねばならぬ」ですが、その途中の終わりの方で、

 

一寸先は闇ではなく
光であることを知らねばならぬ

 

と書かれています。でも、私は「一寸先が光りなら、二寸先は闇だ」とつい半畳を入れたくなります。このネガティブなところがうちの上(かみ)さんに嫌われる点です。真民の一番有名な詩の一つは「念ずれば花ひらく」でしょう。

 

念ずれば
花ひらく

 

苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった

 

この言葉は彼の八字十音の真言です。でも、いくら念じても花がひらかないこともあるのが現実です。いや、ひらかないことの方が多いでしょう。先日新聞の人生相談の欄である有名なサッカー選手が、十本二十本シュートを放ってもゴールに決まるのはせいぜい一本あればいい方。何事もうまくいかないのがふつうと考えましょう、と答えているのが印象的でした。イチローが日米通算四千本安打を達成したときのインタビューでも、八千回の悔しい思いをしたと話していました。

 ところが、真民に言わせると、「念じてもなかなか花はひらかない」とか「やっぱり一寸先は闇だ」という人は、何でも頭で考えるインテリか、自分をインテリと思っている人なんだそうです。そういわれると私は典型的なインテリということになります。「念ずれば花ひらく」、「一寸先は光だ」というのは足の裏から出てくる声だそうです。これは真言であり、信念信仰なのですから、理屈で考えるのではなく、本気で口に出さなければならないのです。ですから、花が咲くとか咲かぬとか、いらざる心配はせずに、「念ずれば花ひらく」とただ一心に唱えさえすれば必ず花はひらくというのです。光か闇かについても同じで、「光と闇」では、

 

光だ
光だ
という人には
いつか光が射してくるし

 

闇だ
闇だ
という人には
いつまでも闇が続く

 

ということになるのです。浅読みを恥じています。一心称名が足りませんでした。ですが、信仰は信仰、現実は現実です。現実では、なかなかそうとばかりは言い切れません。「ねばならぬ」とか「べきである」という語法は現実がそうであるという事実を述べているわけではなく、むしろ逆で、現実がそうでないということの別の謂いなのです。そして、「いくら念じても花がひらかない」時はただ、

 

ままならぬ
憂き世の定めと
あきらめぬ

 

と諦念するしかありません。きっぱりあきらめて次のことをやればいいのです。ひらくかひらかないかは縁しだいなのですから。認知療法のベックや論理療法のエリスが言うように、この「ねばならぬ」とか「べきである」というべき思考に過剰にとらわれることがうつ病の病因の一つになります。

 私が言いたいことは、本当は「三寸先は光でもなければ闇でもない、だからして、光でもあれば闇でもある」ということです。西欧合理主義の思考方式では、命題は「肯定(イエス)」か「否定(ノー)」かのいずれかの二価値の論理に従い、肯定と否定の同時併立は矛盾律と排中律によって厳しく禁じられています。ところが東洋思想や仏教には、それ以外に「肯定でもなく否定でもない」、だからして「肯定でもあれば否定でもある」というもう二つの論理が存在しています。前者を「両否のレンマ」、後者を「両是のレンマ」と呼び、二価値の論理と合わせてテトラ・レンマ(四論)といいます。これがあたりまえのことなのです。良いか悪いか、好きか嫌いか、と聞かれても、良くもなければ悪くもない、好きでもあれば嫌いでもある、というのが真実なのです。ですから、光とか闇とかにとらわれないで、「光の日は光の中闇の日は闇の中」とみつをのようにそれぞれに安心してやすらうことです。

 「禍福は糾える縄の如し」、「楽は苦の種、苦は楽の種」という言い方もあるように、現実は「明けない夜はないし、暮れない朝もない」という双方向の二重記述でしか記述できません。夜明け前と日暮れの後は真っ暗な闇、夜明けの後と日暮れの前は明るい光に満たされているのが毎日のごくふつうのできごとです。朝がよくて夜が悪いわけではありませんし、光がよくて闇が悪いわけでもありません。真民の詩にもこう詠まれたものがあります。「闇と苦」という詩です。

 

闇があるから
光がある
苦があるから
楽がある

 

闇を生かせ
苦を生かせ

 

 朝は朝、夜は夜。光は光、闇は闇。両方とも縁によって、起こることは起こるべくして起こるのです。どちらも是非の判断を加えることなく、あるがままをそのままに受け入れるというのが仏教の教えです。