人生ご破算で願いましては

第三章 歩行(ほぎょう)が人間を仏にする

一、「GATE」

 歩行に関連して、私が最も感動した映画の一つは、マット・テイラー監督の『GATE』です。この映画を見たのは、数年前の八月八日のことでした。八月六日が広島、その三日後の八月九日が長崎の原爆の日ですから、その中間だったので日にちはよく覚えています。

 広島の原爆は人類最大の過ちでした。その火は祈りとともに、六〇年余の間、密かに燃やし続けられていたのです。「GATE」は、その奇跡的な火を、すべてがはじまった地に戻し、そこでその火を消すという象徴的な行為によって、今なお敵意や憎しみ・恐怖から地球上で増え続けている核の負の連鎖を絶ち切り、永遠に眠らせようと願った僧侶たちの物語でした。

 出だしの冒頭のシーンは、監督のマット・テイラーが、長崎市にある曹洞宗の皓台寺(こうたいじ)を訪れ、大田大穣住職の話を聞く場面です。これが映画の導入部であり、物語の伏線となっています。

 「もしその原爆の火を持っているのであれば、その火を生まれたところへ帰すことによって、その輪が閉じることができないでしょうか」という監督の問いに、住職はふくよかな顔におだやかな微笑みを浮かべながら答えます。「因と縁とによって、物事は終わりを迎えることができます。今の場合は、アメリカで生まれた原爆の火が広島、長崎の多くの人を無残に、この地上から命を奪ったわけですけれども、その火を最初の原爆実験の成功した六十年後の日に、ふたたび日本からサンフランシスコへと届け、八月九日長崎の地に落ちたその日にその火をトリニティサイトの核実験の地にお返しすることによって、そうした因縁を断ち切る、解消する。そうした火の使い方は、地上にあらしめないという作業をさせていただくという事が、本当の火の使い方、あり方というものになる、と思います」。つづけて「トリニティに着いても、ゲートがあるわけですから、六十年間そのゲートは一度も開いたことがないわけです」という監督の話に住職は応えます。「しかし、私どもの伝えられておる歴史の中で『一人真(いちにんしん)を発すれば、十方真際(じっぽうしんざい)に帰す』(一人の人間が人間として真実の生き方をするとき、全ての世界、宇宙が真実そのものになっている)、つまり、一人が思い立ったことが、もうまわりの全ての人を巻き込んで実現に向かうと、必ず実現する、という禅の言葉があります。願い続け、それを実際に行動に移すということがあれば、必ずそれは実現すると信じています」。

鎌田厚志禅師の円相画

 このシーンは、住職が白紙に一筆(ひとふで)で円を大書し、監督に手渡すところで終わります。禅宗でよく描かれる円相画です。この円形の書画は、悟りや真理、あるいは宇宙全体を象徴的に表現したものです。住職が書いて手渡した円相画がこれから始まる物語の全てを予告しています。僧侶たちの思いはすぐに実行に移されました。二〇〇五年七月のことです。

 一つの赤いランタンに灯された「原爆の火」が白い帆船「日本丸」で長崎から運ばれ、サンフランシスコに到着したところから物語が展開されます。サンフランシスコは原爆が積み出された港です。そこから、世界最初の原爆実験が行われたニューメキシコのトリニティサイトまで、灼熱の二、五○○キロを僧侶たち一行がただひたすら歩きつづける祈りの行脚をヒューマンドラマとして記録したドキュメンタリーです。

「GATE」

 しかし、苦難の果てに目的地に辿りつけたとしても、そこは軍関係者以外は立ち入り禁止となっている敷地です。はたしてゲートは開かれるのでしょうか。映画の題名はそのことに由来しています。原爆反対を声高に主張するでもなく、原爆投下に抗議するでもなく、ただ黙々と穏やかにその場所に一歩一歩近づいていく僧侶たちの姿が多くのアメリカ国民の共感を呼び起しました。

 映画には出てきませんが、現場の指揮官はこの事態の対処に苦慮して、上層部に判断を仰ぎます。でも、そこでも決着がつきません。あげくにホワイトハウスにまで話が上がったけれども、大統領でさえ決断しかねて、またもとに差し戻されて現場の意向に最終決定が委ねられた、という裏話があります。結局、ゲートは開かれて僧侶たちは無事迎え入れられ、目的の地で火を消すという輪を閉じる儀式が厳かに執り行われました。

 この映画のどこに感動したのかと尋ねられても困ります。たしかに、全編を貫いて核兵器の廃絶がテーマとなっていましたし、トリニティに到着した僧侶一行を子どもたちが折った色とりどりの千羽鶴が待受けている場面とか、通過する町々で地元の市民と交流するエピソードがいくつか織り込まれてはいるのですが、初めから終わりまで大部分の画面はただひたすら山を越え砂漠を渡り、黙々と歩きつづける僧侶たちの姿が映し出されているだけなのです。

 「最小努力の最大効果」にしか価値を置かない現代社会において、何でそんな無駄なこと、「最大努力の最小効果」に一途に励むのでしょうか。今は科学文明の時代ですから、二、五〇〇キロぐらい飛行機や自動車を使えば半日もかけずにあっという間に到着できるものを。何か言いたいことがあれば、テレビや新聞などのマスコミ、あるいはインターネットを使えば、一瞬のうちに世界に伝わるものを。何を好き好んで世界平和と人類の幸福を祈りながら歩きつづけるのでしょうか。よくよく考えて見ますと、私の場合、核兵器の廃絶、あるいは世界の平和や人類の幸福というその趣旨に共感したというよりも、ただ黙々と歩きつづけるその姿そのものに感動したのだと思います。歩くという人間の本質ともいうべきもっとも原初的・原始的な行為に心が揺さぶられたのです。

 原始人は食料を求めて何日も何日もサバンナを歩きつづけていたに違いありません。それと僧侶一行の歩く姿とが無意識のうちに重なり合ったのでしょう。それはそれは尊厳に満ちたものでした。歩く姿に人間の根源を見たというのは、それが人類の起源と深く関わっているという意味においてだったのです。

 「GATE」のもう一つの主役は、はじまりの地に戻って消される運命にあるランタンの火です。それは、広島からはるばる持ってきた「原爆の火」であるという象徴性もさることながら、私たちは、火そのものに対して何かしら神秘的なもの、神聖なものを感じます。五〇万年前に北京原人が火の使用を行っていたことが知られています。火は暖を取り、夜を明るくし、食べ物を調理するのに役だったばかりでなく、猛獣から身を守るために必要不可欠のものだったのです。ハート&サスマンの『ヒトは食べられて進化した』によりますと、「太古のヒトは猛々しいハンターであった」とする俗説に反して、ヒトはむしろ「狩られ食べられる側だった」ことが明快に論証されています。ワニやヒョウ、トラ、ハイエナなどに捕食された牙穴の痕跡のある化石骨がいっぱい出土しているそうです。彼らは捕食の恐怖にさらされながらひっそりと暮らしていたか弱い生きものだったのです。彼らにとって野獣を遠ざけることのできる火がどんなにか心強い道具であったことか、原始人にとってまさに神からの贈り物でした。だから、今日でもなお神への感謝を捧げる祭りには火がつきものなのです。

 映画の最後の場面は、祈りの言葉を書いた長い布に子どもたちが折った千羽鶴を包み、それにランタンの火を移して、その火を囲んで祈るという儀式でした。これでランタンの火を元に戻して消すという象徴的な初期化の行為が無事終了しました。

 映画「GATE」は『ランタンとつる』という子ども向けの絵本にもなっています。映画にはそういう場面はないのですが、絵本のむすびのくだりはこうなっています。僧侶たちは折り鶴を持ってきた子どもたちに優しく微笑みかけ、そしてささやくように語ります。

 

「君たちの祈りのおかげでトリニティの門は開かれました。そして君たちのおかげで我々の旅が終わりました。でも君たちの旅は今始まったばかりです。
・・・・・・・・・・
自分たちの住む世界を君たち自身で守らなければいけません。
未来は君たちが創るのです。
・・・・・・・・・・
そして消されたこの火を二度と生き返らせてはいけません」。

 

映画でも、「彼等の旅は終わりました。我々の旅は始まったばかりです」が幕切れの最後のナレーションでした。

 私たちは、火に対してと同様、歩行についても特別の感情を持っているのだということを、「GATE」から学びました。

閑話休題六桶屋が儲かれば、風が吹く

 あらゆるもの・ことはすべてつながり合って一つの輪をなしている、というのが仏教の根本思想です。ですから、「風が吹けば、桶屋が儲かる」のです。逆に「桶屋が儲かれば、風が吹く」はずです。そうなってはじめてあらゆる現象が一つの輪に閉じるのですから。桶屋が儲かれば、必ず風が吹きます。なぜなら、桶屋が儲かれば、木の需要が増えます。そのために、樵夫が山に入って木を残らず切り倒します。山は丸裸になります。今までは緑の草木が防風の役割をはたして里に吹く風はおだやかな心地よいそよ風だったのに、丸裸の山では、風は砂埃を巻き上げながら真っ向から吹き下ろしてきます。雨が降れば土砂崩れが起こります。ですから、埃っぽい風が吹いて目に砂が入りやすくなるのです。後はご存じの「風が吹けば、桶屋が儲かる」の因果関係の説明になります。

 「風が吹けば、桶屋が儲かる」式の考え方は、本来円環関係にあるもの・ことの一側面に過ぎません。でも、この直線的因果関係の考え方が私たちのごくふつうの常識になっています。「親が子を育てる」、「教師が生徒を教える」、「医者が患者を治す」。みんな同じ一方的な言い方です。これは円環関係のもう一方の側面、つまり「子が親を育て、教師が生徒に学ぶ」という側面を無視しています。これまで子どもに問題が生じると、母原病論に従って一方的に原因帰属を行い「問題児をつくる母親」ということだけで納得されていましたが、システム論の円環的認識論では、「『問題児をつくる母親』をつくる問題児」というような双方向的二重記述が重視されます。これが悪循環となって子どもの問題がますますこじれてくるのです。この悪循環を断てば問題が解決するというのがシステム療法の考え方です。

 この二重記述は仏教的表現の独擅場です。よく知られた『般若心経』では「色不異空」といえば、必ず「空不異色」、「色即是空」といえば、「空即是色」と折り返されます。

 道元は「空は一草なり」といっていますが、「一草は空なり」といっても同じことです。

 このように、円環的相互作用の視点に立つと、原因は結果となり、結果は原因となるので、原因―結果の明確な区別は無意味となります。だから、「縁起」なのです。すべてのもの・ことは、互いに関わり合いながらそれぞれに現象するのです。これを「空」といいます。