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第五章 ゼロと空とは双子の従兄弟

一、ゼロと空はシューニヤ

 「空」の語源は、サンスクリット語の「シューニヤ(sunya)」です。この同じシューニヤの語がインド数学の「ゼロ」を表します。空もゼロも同じ語で表現され、しかもいずれもインドで誕生したということはとても興味深いことです。空の概念は、二、三世紀頃、龍樹の『中観説』によって縁起説と結びつけられて体系化され、大乗仏教の根本思想となりました。その源流を、紀元前五世紀前後の釈迦の悟りにさかのぼるとすれば、数学的ゼロの発見は、西暦六世紀頃とされていますから、その間にほぼ千年の隔たりがあります。ちなみに、西欧でゼロの概念が導入されたのは、何とルネッサンス末期の十六世紀のことですから、それからさらにほぼ千年遅れということになります。

 ゼロと空の関連性については、ゼロは数学上の必要から生み出されたものだから、哲学的宗教的概念である空とは何の関係もないと主張する人たちがいる一方、ゼロの発見の背景にはやはり基盤として空の思想があったに違いないと推測する人たちもいます。どちらが正しいか、いずれにしろ確証のないことですから、どちらともいえません。どちらともいえませんが、どちらかというと、前者は数学者に、後者は哲学者や宗教学者に多いような気がしています。

 たとえば、数学者の吉田洋一は、名著の誉れ高い『零の発見』の中で、「インドにおいてゼロの概念が発達を見たのはなぜか。・・・なかには、これを『空』というようなインドの哲学思想と結びつけて考えようとしている人もいないではないが、これは、はたして、いかがなものであろうか。こういう高遠な考え方は、ただ興味だけを中心とした見地からは、捨てがたい味があるにしても、とうてい問題の本質に多くの光を投げえないのではないか、と思われるのである」と両者の関連性をにべもなく否定しています。

 これに対して、宗教学者の山折哲雄は、「記号としてのゼロ=シューニヤは、いわば抽象的な形体や世界を指示するための象徴記号としての作用をはたしている。そしてそのような考え方がインド仏教の根底にも流れていることを、ここで強調したいのである」とゼロがその根底において空と同じ思想を共有していることを指摘しています。

 私自身は数学者でも宗教学者でもありませんが、山折の考えに共鳴しています。私の論理はこうです。もし、吉田洋一が言うように、数学上の必要からだけでゼロの発見がなされたのであれば、なぜ西欧におけるゼロの導入がインドから千年も遅れたのか、その理由が説明つきません。チャールズ・サイフェによれば、西欧世界でゼロと無の概念が受け入れられなかったのは、アリストテレス哲学とキリスト教のせいだといいます。ならば、逆に哲学や宗教の思想がゼロの発見の基盤になったと考えてもなんら不合理ではありません。同じ言葉で表現され、同じインドで誕生しているということから、ゼロの発見に空の思想が何らかの無視できない影響を及ぼしたに違いないと考えざるをえません。