人生ご破算で願いましては

第五章 ゼロと空とは双子の従兄弟

三、無からは何も生まれない?

 先ほど、ゼロは無の数といいましたが、無は無限に通じます。

 形あるものは、それがどんなに大きいものであったとしても、必ず限界があります。でも、空気や水のようにもともと形のないものには限界がありません。無は無限なのです。ゼロや無ほど大きいものはない、といいますが、そもそも大きいとか小さいとか、さえ言うことができないのです。

 ゼロと無限大は両極端ですが似たはたらきをもっています。いずれも数学上とても奇妙な動きをして、数の基本原理に反した働きをします。そのため数学の基本構造と論理的枠組みを破壊してしまいます。わかりやすく、数は1,2,3、・・・の自然数を考えることにします。

 どんな数にゼロを掛けてもゼロ。どんな数に無限大を掛けても無限大。まるでブラックホールにでも吸い込まれるみたいです。ふつう数に数を足したり引いたりすると、もとの数は、増えたり減ったりします。しかし、ゼロを足しても引いても数はもとのまま。むろん、ゼロ足すゼロはゼロです。これをアルキメデスの公理と呼びます。ゼロは他の数を大きくしたり小さくしたりすることを拒むばかりでなく、自分自身を増減させることも拒否します。あたかもゼロに実体がないかのようです。無限大の場合は、逆にどんな数を足しても引いても無限大は無限大。数を無限大で割るとゼロ。ゼロで割ると無限大。真反対ですがそっくりです。「ゼロと無限大は双子の兄弟」というのはチャールズ・サイフェの言葉です。ふたりで手を組んでとてつもないいたずらをします。

 ゼロを無限に加算すると、どんな数でも生み出すことができます。たとえば、(a-a)+(a-a)+・・・の無限級数の和を考えてみましょう。カッコ内の部分和はゼロです。ですからこの無限級数の和はゼロのはずです。ところが、カッコの括りを一つずらしますと、a+(-a+a)+(-a+a)+・・・の無限級数に変わります。この和はa+0+0+・・・=aでaになります。aは1、2、3・・・どんな数に置き換えてもかまいません。ただし、このことは無限だからこそ成立するのだということを忘れないでください。有限であれば、その系列がどんなに長くても最後は-aが残りますので、結局その和は0です。また、(1-1)+(2-2)+(3-3)+・・・の無限級数のカッコを一つずらせば、同じ原理で1+1+1+・・・=∞になります。ゼロの無限和がどんな数でも生むとはこういうことです。西洋の常識に反して、「無からは何も生れない」どころか「無から何でも生れる」のです。

 『零の発見』の著者、吉田洋一は、(1-1)+(1-1)+・・・の無限級数の和にまつわって次のように皮肉っぽく語っています。

 

 和が0であるような級数を書きなおすと、和が1であるような級数が生れてくるというので、これで万物が無からつくられた消息がよくわかる、といって、随喜の涙を流した数学者もあった、という話が伝わっているのである。
いまから考えると、ただ滑稽というよりほかないが、当人は、それでも、大まじめであったのである。

 

 でも、ゼロと無限大の働きにはふつうの数学の論理では計り知れない摩訶不思議なところがあります。次に、ゼロの乗算を考えてみましょう。どんな数にゼロを掛けてもゼロです。ある数(a)にゼロを掛けるともちろん答えはゼロです。別のある数(b)にゼロを掛けても同じく答えはゼロです。ですから、a×0=b×0が成り立ちます。この両辺から0を除すると、最初の定義で異なる数であったaとbの間に、a=bというへんてこな結果が得られるのです。その理由は、こっそりゼロをゼロで割ったからです。

 実体のない数ゼロがとんでもない威力を発揮するのは、ゼロの無限加算でもゼロの掛け算でもなく、割り算においてです。数学上、ゼロで割ることは禁じ手になっています。これを使うと地獄の釜の蓋が開くからです。しかし、サイフェは、この禁じ手が宇宙創造の原動力になると明言しています。

 

 ゼロは、物理学の大きな謎すべての背後にある。ブラックホールの無限大の密度は、ゼロで割った結果だ。ビッグバンによる無からの宇宙創造も、ゼロで割った結果である。・・・
科学者が知っているのは、宇宙が無からうまれたこと、そして無に帰るということだけである。宇宙はゼロからはじまり、ゼロに終わるのだ。

 

 スティーヴン・ホーキングによれば、ビッグバンが起こる時点では、宇宙の大きさは無限小で、密度が無限大だった、そうです。サイフェは言っています。「宇宙はゼロのうちで生れた。まったくの無のなかから、とてつもない爆発が起こって、宇宙全体を形づくる物質とエネルギーがすべて生じた」と。ビックバン仮説では、宇宙は時間と空間の区別がない「無」の状態から誕生し、爆発的に膨張してきたのであり、時空それ自体が膨張している、とされています。「宇宙は初めも終わりもなく、不変で定常的だ」と考える定常宇宙論に「宇宙には始まりがあった」という宇宙膨張説が取って代わったのです。宇宙年齢はおよそ一三八億年だと見積もられています。

 逆に、ブラックホールでは、サイフェによりますと、「死にゆく恒星はどんどん小さくなっていく。そして・・・ゼロ。恒星はゼロ空間におさまる。これがブラックホールだ。ブラックホールが占める空間はゼロだが、質量はある。・・・恒星は臨終を迎えると、重力崩壊を起こしてどんどん縮んでいき最終的には密度・重力が無限大の一点に圧縮されてしまう」ということです。ブラックホールは極めて逆説的な未知の天体です。

 このように、宇宙誕生のビッグバンも恒星の死であるブラックホールもゼロで割った結果だというのです。ブラックホールやビッグバンを考えるとき、現代物理学では、どうしても質量/体積の体積がゼロとなる特異点が発生するためゼロ除算による無限大発散の難問が起こるのだそうです。想像もつかないことですが、体積がゼロで質量が無限大の物質を仮定せざるをえないらしいのです。

閑話休題九『靴が鳴る』

 清水かつら作詞、弘田龍太郎作曲のこの童謡の題は「おててつないで」と誤解されていますが、本当の題名は『靴が鳴る』です。日本でもっともポピュラーな童謡の一つですので、一番の歌詞はみなさんよくご存じです。

 

おててつないで 野道を行けば
みんな可愛い 小鳥になって
唄をうたえば 靴が鳴る
晴れたみ空に 靴が鳴る

 

 問題は、どうして子どもが小鳥になるのか、ということです。二番の歌詞では蝶ちょになるし、三番ではうさぎになります。この童謡では、子どもが小鳥になったり蝶ちょになったりうさぎになったりします。童謡に限らず、童話でも昔話でもごく自然に変身します。まだ知恵づいていない幼児では何の抵抗もないのですが、分別知がつくと、子どもが小鳥や蝶ちょやうさぎになるわけがない、それは非論理的で不合理だと目くじらを立てるようになります。でも、今述べましたように、ゼロをゼロで割るという数学の禁じ手を使えば、何でもありなのです。大人でも納得せざるをえない論理です。実は偽論理なのですが。サイフェは、同じ論理を使って、もっと手の込んだやり方でチャーチルがニンジンであることを証明?しています。

 同じことは、空でもやれます。色即是空ですから、子ども=空です。色はすべての現象を表しますから子どもに限らず、小鳥も蝶もうさぎもすべて空です。小鳥=空。ということは、いずれも同じ空ですから、子ども=小鳥(蝶ちょ、うさぎ、その他何でも)が成立するのです。これが空即是色ということです。

 なにかキツネにつままれたような話です。数学では禁じ手を使いましたが、仏教の空思想ではごくあたりまえのことです。無分別知ですから。

 日本の昔話と西洋の童話を読み比べてみると面白いことに気づきます(拙著『童話・昔話におけるダブル・バインド』)。日本の昔話、たとえば、「鶴の恩返し」では、鶴が人間へ、また人間から鶴へとなんの力も介在せずにごく自然に変身します。それに対して、西洋の童話、たとえば、同じような「白鳥の湖」では、王女が白鳥に変えられるのは魔法の力によってです。たいていは真の愛によってその魔法が解けるという筋立てになっています。日常から非日常へ、非日常から日常への移行は、日本では、自然のことで不合理でも何でもないのですが、西洋ではこの不合理を解決するために魔法の介在が必要なのです。ゼロをゼロで割る数学の禁じ手がこの魔法の力ということになります。