人生ご破算で願いましては

第五章 ゼロと空とは双子の従兄弟

四、ゼロ即無限(無一物中無尽蔵)

 矛盾的自己同一性の逆説は、X=1/Xで表現されます。右辺のXを限りなく大きくすると左辺のXは限りなく小さくなり、その極限はゼロです。逆に、右辺のXを限りなく小さくすると左辺のXは限りなく大きくなります。その極限が1/0=無限大発散です。Xが無限大であれば、Xはゼロ。Xがゼロであれば、Xは無限大。まったく矛盾していますが、自己同一です。

 遠近画法はこのことを具体的に視覚化してくれます。左の図は、チャールズ・サイフェの『異端の数ゼロ』から借用したブルネレスキの絵です。この絵は、実物と見まごうほど三次元の洗礼堂を見事に写しとっています。消失点はゼロと無限が結びついた特異点です。このゼロ点に無限の空間がおさまっているのです。

 人、木、家などの事物は無限遠点に後退するほど、換言すれば、消失点に近づくほど、圧縮され、結局は点に押し込まれて消失してしまいます。消失点でゼロと無限大が一つになっているのです。まさに「ゼロ即無限」です。

ブルネレスキの遠近法画
(チャールズ・サイフェ『異端の数ゼロ』より)

 同じことは、空間ばかりでなく、時間についても言えます。仏教では、人が生きているのは過去でも未来でもなく、現在只今この一瞬、つまり而今(しきん)だと言います。現在のこの一瞬の中に無限の過去も無限の未来もすべて含まれており、而今は時間のゼロ即無限と言うことができます。

 ゼロはまったく何も存在しない状態を表すと同時に、何もかもすべてが限界なしに存在する状態をも示しているのです。先ほど「何かある」ということは「何もない」ということを前提にしていると言いましたが、「何もない(nothing)」からして「何でもあり(everything)」というのを仏教では空というのです。

 禅で空の教えを説いた言葉に「無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)」というのがあります。「何もない」中に「何もかもある」という意味です。宋代随一の詩人でかつ優れた禅者でもあった蘇東坡の詩の一節です。無の中に有、虚の中に実を観る禅の悟りを表わした言葉です。詩ではこれにつづいて「花あり月あり楼台あり」と詠われます。無の心に、紅に彩られた花や、煌々と輝く月、そして何重もの見事な高楼がくっきりと鮮やかに映し出されるという境地です。人間本来の姿である無一物に徹すれば、宇宙の存在の一切が無限に自己に現成され、花も月も楼台もことごとく自己でないものはない、というふうに解釈されています。縁なくしては何もないという無一物の境地に立つと、すべてがつながる無限の世界が開ける、というのです。

 「一物もない」ということは、数学的に言えば、ゼロということです。そのゼロの中にあらゆるものが尽きることなく含まれるというのですから、無一物中無尽蔵を言い換えますと、ゼロ即無限と表現することができます。西田哲学風にいえば、絶対矛盾の自己同一性です。

 松尾宝作は『一の論理―般若の空とゼロの発見』の中で空やゼロが「点と無限の矛盾的自己同一」であるという考えを次のように述べています。

 

ゼロと無限とは矛盾的自己同一で、これを空と称する。ゆえに空なればこそ一切は生じ、空なればこそ一切は生じない。

 

 空を数的に表現すれば、ゼロ即無限となります。「ゼロと無限大とは双子の兄弟」の言い方に倣えば、さしずめ空とゼロ即無限とは「双子の従兄弟」くらいの縁戚関係にはなるでしょう。双子の従兄弟とは奇妙な言い方ですが、双子の兄弟をパロっているだけです。ゼロと無限大は同じ数学の用語ですが、ゼロと空はサンスクリット語で同じ「シューニヤ」で表現されているにせよ、数学と仏教とは異なる領域ですので、こういう言い方になるのです。現実の現象世界は、一とか二とか三とか・・・という有限の世界で成り立っていますが、それは一とも二とも三とも何ともいえないこのゼロ即無限の究極の空の世界に浮かび上がったものなのです。

閑話休題十世界は一つ、それともゼロ即無限?

 先に、あらゆるもの・ことは相互につながりあって一つの輪をなしている、という宇宙観が仏教の根本思想である、と述べました。言葉尻を捉えて細かいことに目くじら立てることもありません。が、すべてはつながりあって世界は一つという言い方に少し違和感があるのです。

 一というからには、他と比べて数えられる二や三があるはずです。よく団体の九州大会などで、会員の団結を呼びかけるために、「九州は一つ」という言い方をします。以前、四国の遍路行で八十八カ所をまわったとき、たしか「八十八ヵ所の遍路道を世界文化遺産にしよう!」(記憶は定かではありません)というスローガンの看板にも「四国は一つ」と書いてあるのを見かけました。そういう言い方をするとき、たとえば、「九州は一つ」の場合には、必ず四国や北海道、本州などが暗黙の前提にされています。

 空を見上げると、白い雲が一つ二つ浮かんでいます。しかし、飛行機で雲の中を飛んでいるときには、まるで山中で濃霧に取り巻かれているような感じです。あたり一面灰色の世界で奥行きも何もありません。心理学でいう視的全体野の現象です。雲は外から見るから他と区別される形があり、形あるものは一つ二つと数えることができるのです。中に入り込んでしまうと無です。

 これと同じで、私たち自身、すべてがつながり合っている輪の中にいるのですから、一と言うことはできないのではないか、と思うのです。でも、世界はすべてがつながり合ってゼロである、というのも何か変です。

 岡野守也の主張はこうです。「一というのは、二や三があるから一なので、それ以外に何もない『ひとつ』ならば、『一』とさえいうことができないので、『空』とか『無』という」(『わかる般若心経』)。

 私は、先にゼロ即無限を空といいました。その言い方からすると、宇宙と自己との根源的一体性が直感されるとき、それは、一ではなく、ゼロ即無限が体感されるという言い方になるでしょう。