人生ご破算で願いましては

第五章 ゼロと空とは双子の従兄弟

六、空の不思議

 ある日、いつものように本を読んでいたら、一匹のアリが机の上を這っているのに気づきました。その時ふと、「このアリは、なんでこのアリなんだろう」という不思議な感覚に襲われました。

 机の上を這うアリは別にこのアリでなくても他のアリでもよかったはずです。いえ、アリでなくてもハエでもゴキブリでもよかったはずです。また、このアリもただ一匹孤独に机の上を這い回らなくても、仲間の群れのなかであいさつしながら道の端を行き交っていてもよかったはずです。その方がアリも幸せだったでしょう。群れから外れて一匹だけではおそらく生きてはいけないかもしれません。なんでこのアリは今ここで机の上を這い回っているのか、不思議に思ったのです。

 考え出すと夜も眠れません(いや寝てはいます)。机の上をアリが這うことは、よくある何でもないこと、とふつうは一顧だにされません。そんなことあたりまえと考えるのが不思議でたまらないのです。金子みすゞの「ふしぎ」の心境です。

 

わたしはふしぎでたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかっていることが。

 

わたしはふしぎでたまらない、
青いくわの葉たべている、
かいこが白くなることが。

 

わたしはふしぎでたまらない、
たれもいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。

 

わたしはふしぎでたまらない、
たれにきいてもわらってて、
あたりまえだ、ということが。

 

 この最後の句が決まっています。私たちのまわりには「不思議」があふれています。でも多くの大人たちは、あたりまえの一言でかたづけてしまうのです。「不思議」を感じるがままにごく自然にうたうみすゞのように、子どもの豊かな感性をいつまでももち続けていたいものです。

 坂村真民の「二度とない人生だから」という詩に、

 

二度とない人生だから
つゆくさのつゆにも
めぐりあいのふしきを思い
足をとどめてみつめてゆこう

 

という一節があります。私のアリとの出会いと同じ状況が詠われています。

 前述のとおり、あらゆることは、「現にある、と同時に別様にもありうる」ものです。でも、「現にある」ということは、「別様にはあり得ていない」ということです。現に今、机の上をこのアリが這っており、それを私が見ている、というのは厳然たる事実です。確かに可能性としては別様にあり得たとしても、現実には別様にあり得ていないのです。あらゆる条件がぴたっと一致してそうとしかあり得ないのです。まさに、縁起によって現成しているのです。偶然ではなく必然なのです。今ここではこうしか起こりようはなかったのです。でも、あらゆる現実が別様にもあり得るという見方、常に可能性の地平から物事を考えるというのが、仏教で言う〈空〉の態度です。

 私がアリとの出会いの不思議さに思い耽けっていた折も折、孫の授業参観で小学校へ出かけた時に、折原みとの「不思議」という詩が廊下の壁に張られているのを見つけました。私のその時の気持ちとあまりにもぴったりだったので、すかさずメモしました。それは次のような詩です。

 

不思議だね、ここにいること。
同じ時間の中に生まれて、
ここで、こうして出会えたこと。

 

こんなに広い、星の上で、
こんなに、近くに生まれたこと。

 

もし、この出会いが、
神様のホンの気まぐれでも。

 

教室で、机を並べてるみんな、
帰り道ですれちがう人たち、
隣で笑ってるあの子、
幼なじみのあいつが、

 

とても不思議に、
特別に見えた。

(『いま中学生に贈りたい七〇の詩』より)

 今こうしてここにあること、何かと出会っていること。考えてみると、とても不思議なことです。神様の気まぐれであれ何であれ、それを必然とするような縁が起こっていることだけは確かです。この不思議さを仏教では空といいます。

 這っていたあのアリは、どこへいったのか、いつの間にかいなくなりました。私は本を閉じました。這っているアリも空、それを見ている私も空。その一瞬、アリと私は空の中に漂っていました。

閑話休題十一「お陰様のお陰」は空である

 アフリカ女性ではじめてノーベル賞を受賞したケニアの環境活動家のワンガリ・マータイさんは、日本語の「モッタイナイ」という言葉を世界に広めてくれました。

 心から感謝しています。が、どうせ広めてくれるのなら、「モッタイナイ」もいいですが、私としては、「お陰様」の方がよかったのではないか、と思っています。これは、「ありがとう」と並んで日本でもっとも大切にしている言葉だからです。

 「最近、いかがですか」「ええ、お陰様で」。この何気ない会話で日本人のコミュニケーションは成立します。

 でも、何で「お陰」に「様」をつけるのでしょうね。いつも不思議に思っています。「私が今日あるのは、あなたのお陰様です」とはふつう言いませんよね。この場合は「あなたのお陰で」と言って「様」は省きます。どういった状況で「様」をつけ、どういった場合には省くのでしょうか。相田みつをは、この点まったく気にしていません。題は「おかげさんで」で「様」がついているのですが、書かれている言葉では「様」がついていません。

 

まける人の
おかげで
勝てるんだ
よなあ

 

 これは、私見でまったく自信はありませんが、あなたとか皆さんとか、この書の場合では「まける人」だとか、何か特定できるものの場合には、様を省いて、ただ「お陰で」といい、お天道に様をつけるように、人知を越えた目に見えない何か無量無辺の大いなるもののお陰に対して、様をつけるのではないでしょうか。子どもの頃親からよく「悪いことしたら、お天道様が見ているよ」と叱られたものです。

 私たちが「現に今、ここにこうして」恙なく生活できているのも、「お陰様のお陰」と感謝しなければ。この「お陰様のお陰」も空なのです。