トッシーの一口小話

トッシーの一口小話 歌にみる仏教観

一、夕焼け小焼けの仏教観

 山折哲雄は、中村雨紅の童謡「夕焼け小焼け」の歌詞に日本人の仏教観がじつによく表現されていると言っています。この童謡の歌詞は、日本人なら誰でもよく知っています。

 

夕焼け小焼けで日が暮れて
山のお寺の鐘がなる
お手々つないで皆帰ろ
烏と一緒に帰りましょう

 

 山折は述べています。

 

 日本仏教の背後に宿っている自然観と生命感が、そこにはみごとにうたいこまれているではないか。無常感といってもよい。自然との共生感覚といってもよい。なるほど仏教が国民宗教化したというのは、こういうことをいうのかもしれないと考え直したのである。

 

 このように、山折は、その歌詞のなかに、無常感という日本人の根源的な宗教感情がこめられていることを指摘しているのです。なるほど、そうだったのか、と腑に落ちました。そしてまたぞろ、淺智恵が働きだして、いらざる解釈が頭をもたげたのです。

 冒頭の「夕やけ小焼け」は日本人の大好きな言葉です。「赤とんぼ」の出だしも「夕焼け小焼け」で、幼い頃の懐かしい情景が追憶されています。実際の経験はなくとも、誰の心の奥底にもある、胸をきゅっと締め付けるような幼い頃の心象風景です。小柳るみこの『瀬戸の花嫁』では「瀬戸は日暮れて夕波小波」と歌われています。これも同じような情感を呼び起こします。

 私たち日本人は、自然に対する畏怖と畏敬の念を強くもっています。朝日に柏手を打って祈り、夕日に合掌して拝みます。朝日は神様で夕日は仏様なのですね。それでは、いったい昼間の沖天高く照り輝いている太陽は神様なのか仏様なのか、いったい何なのか、といらざる詮索をする必要はありません。昼間の太陽を拝む人は誰もいないのですから。

 私たちは「日暮れの夕日」に仏を感じ、その向こうに西方浄土を見ているのでしょう。やがて夕日が沈むと華やかな夕焼けも色あせて夕闇が静かに訪れます。昼間の喧噪はどこかへかき消されてしまいます。無常を感じる一瞬です。

 「日が暮れる」というのは、いうまでもなく、人生の日暮れです。山のお寺の鐘がまさに今その時を告げます。この世のすべてのものはみんな互いに手をつなぎ合っています。縁起であり、空なのです。「お手々つないで」というのは、そのことを言っていると解釈されます。それでは、縁に導かれながら、みんなでどこに帰ろうというのでしょうか。

 「烏と一緒に帰る」のです。烏は黒い喪服を身にまとった鳥です。死を象徴しています。死と共に帰るところは冥土でしょう。そこは、生れる以前、そして死んだ後の世界です。人生の日が暮れると私たちはみんな死の世界へ帰って逝きます。その冥福を祈るために山のお寺の鐘が弔鐘としてなるのです。

 

 こんな味も素っ気もない屁理屈を重ねていると、「夕焼け小焼け」の日本的情感が雲散霧消してしまいます。山折の言葉だけにとどめて納得する方がいいです。詩や歌は頭ではなく心で味わうものです。わかってはいます。