禅マインドフル・サポート実践法について

むすび

(2)シーシュポスの神話

 同じことはカミュの『シーシュポスの神話』にも見られる。この書においてカミュが基本概念として取り扱うのは「不条理の感性」である。
〈不条理〉というのは、「理屈にならない理屈」、あるいは「なんとも筋道の通らない論証」という意味である。訳者の清水徹は、不条理な行為を「水に濡れないつもりで川のなかに飛び込む」という例で説明している。この世のことは理性では割り切れない。それをなんとか割り切ろうと死に物狂いでもがく。この相対峙する二項対立を不条理と呼ぶのであるが、これになんとか折り合いをつけようとすると、屁理屈にならざるをえない。自己は人知を超えている。知性では理解できない。にもかかわらず、「私はいったい何者か」を問わずにはおられない。人間とはなんとも不条理な存在である。いつ死ぬかもわからない意味も価値もない人生を、それでも生きつづけなければならないことは人生最大の不条理といえるかもしれない。この世は不条理なことばかりである。ただ、それをあるがままに感じ、気づくことが「不条理の感性」である。カミュはその一例として『シーシュポスの神話』を取り上げている。

 紀元前8世紀の吟遊詩人ホメーロスの伝えるところによれば、シーシュポスが地獄で無益な労働に従事しなければならぬにいたった、その原因
については、いろいろな意見がある。一説には、ギリシア神話の最高神ゼウスの浮気をばらした廉(かど)というものがある。ともあれ、神々がシーシュポスに課した刑罰は、巨大な岩を山頂まで運び上げるというものであった。だが、あらんかぎりの努力を傾けて、山頂に運び上げても、岩はごろごろともとの麓へころがり落ちてしまう。そのたびにシーシュポスは自分の岩のほうへと降りてゆく。また持ち上げるために。しかも、いつ終わるともわからずにくり返しくり返し同じ斜面を押し上げるのである。カミュは、今日の労働者にシーシュポスの影を見る。『モダンタイムス』でチャプリンが演じたように、労働者は毎日毎日の生活で、同じ機械的な仕事に従事している。カミュは言う。「その運命はシーシュポスに劣らず不条理だ」と。しかし、このことは、私たち人間のすべてに言えることである。「朝起きて、昼働いて、夜眠る」。これを3万回くり返すと、 80 歳を越える。この無益な同じことのくり返しに、悦びの輝きを見いだせるかどうかが問題である。

 シーシュポスの苦役は言語に絶する責め苦である。神々がこの無益で希望のない労働ほど怖ろしい懲罰はないと考えたのはもっともなことであった。ところが、はじめは苦しみであった毎回訪れる下山が、まるで渋柿の渋が甘味に変化するように、いつしか悦びのうちになされるようになる。カミュは、「悦びという言葉は言いすぎではない」という。ひとを圧しつぶす真理は認識されることによって滅びる。

 ギリシア悲劇の最高傑作であるソフォクレスの『オイディプス』の続編『コロノスのオイディプス』の場合も同じである。運命にもてあそばれて知らずに父を殺し母を妻とし、ついに運命の真実を知って自らの両眼をえぐり、娘に手を引かれて放浪する。ソフォクレスは、辛酸をなめつくした老いたオイディプスに人生の最後に語らせている。「これほどおびただしい試練をうけようと、私の高齢と私の魂の偉大さは、私にこう判断させる、すべてよし、と」。不条理な勝利をこのように定式化する。

 シーシュポスもまた、「すべてよし」と判断しているのである。苦を悦びと感じるのは不条理の感性であり、このような英雄的行為は魂の偉大さを示すものである。苦労して岩を山頂へ運び上げるのは、もはや神々から与えられた刑罰ではなく、みずからの意志によって選び取られた人間的な行為なのである。それは必ず成し遂げられる。その瞬間にご破算になることを知っていながら。シーシュポスは不条理の英雄である。不条理な人間は、みずからの責め苦を凝視するとき、いっさいの偶像を沈黙させる。ささやかな数知れぬ感嘆の声が、大地から湧きあがる。カミュは、「いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ」と結論する。